たぶん文芸誌に連載されたような対談を集成したものなのだと思う。なので、統一的なテーマがあるというわけではなく、それぞれの文学観についていろんな雑感を述べているような印象ではある。
この中で、三島はたびたび川端康成のことを語っている。例えば、「絶対禁止」つまり「閉鎖された本質」「禁じられた真実」のようなものがあり、それをどうやって表現するかということが川端の文学なのだ、と言う。あるいは、川端の「眠れる美女」(さらには谷崎の「卍」にも)には「虚無へひきずってゆく力」があり、それは川端に限らずそもそも文学の本質なのだとも言う。確かに、川端の作品は、何か恐るべき禁忌のようなもの、虚無であり陰であるような何か絶対的なもの、そういったものにじりじりと近寄っていくような怖さがある。そして、川端の小説に確かにそれは典型的なのだけれど、それはある意味で文学の本質的な何かでもあるはずだ。この場合の虚無とは、よく誤解されるような文学的虚無としての思想的なニヒリズムとか、そういう理知的な虚無ではない。なんというのか、世の中の根本に横たわる艶やかに生き生きと蠢いている不在に似た存在、とでも言えばいいのか、そのようなものとしての虚無だ。極めて生理的で女性的で、何かの穴ぐらのように極めてリアルな虚無でもある。ここにあるのは、虚無というものをめぐる抽象とリアルの混交である。「虚無を精細に表そうとすればするほどそれが現実になってゆく」、それが小説というものの面白さでもある。
抽象とリアルの混交と言えば、川端を離れたところで三島はこんなことも言っている。「小説というのは根本的に、人名と地名との、あるものに対する抽象性と具体性との境目のところのニュアンスをつかんでいって、まことらしさを作る芸術」である、と。この抽象性と具体性の境目のところにニュアンスを掴んでという下りは妙に納得できる。そして、そのことが人名や地名といったものに先鋭的に現れてくるということも納得できる。
小説とは、抽象性と具体性の微妙なバランスの間を歩きながら、「できれば太陽を包んでしまいたい」、つまり「宇宙を包括する」ことを企む文芸である。単発的な作品形式となる詩歌は、抽象性と具体性のバランスを取るという作業はあまり必要でないような気がする。それが、作品の長さに起因するものなのか、あるいは文芸の形式の本質に依存するものなのかはよくわからない。
だが、具体性と抽象性の混交ということは、実は確かに小説という文芸の本質なのかも知れない。それは、単に固有名詞ということだけでなく、小説という文芸のあちらこちらに顔を出すもののはずなのだ。そして、現代の作家はその抽象性と具体性の間で、その境界を引き直そうと苦心し続ける。

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