《「降りそうな花だ。」と、大竹七段は言った。》
これはまた実に淡々とした小説と言うか、ほとんど報告文のような趣である。碁の名人の引退碁の様子を描いた本作は、川端のいつもの作品にあるような水気を帯びた滑らかさはない。いかにも乾いた文章の連なりは、老境の名人を描いたからか、それとも報告文という文章の目的によるものなのか、あるいはひょっとすると碁というものが持つ性質がそのようなものを招来するのか。
そういう意味では、いつもの川端の作品のように文章の美しさを堪能するといった手合いのものではない。興味があるのは、やはりこの碁のような世界に心を惹かれた川端の性向である。この本にも書いてあったが、碁というものも中国に端を発するが日本で独自の発達を遂げたものらしい。だから、ある意味では碁とは日本的幽玄の世界を体現するものでもあるとも言えよう。どうやら碁にもその人の特性というものがあるらしい。彼の碁は「暗い」ね、というようなことがあったりするらしい。この微細な事実の積み重ねの中から、ある抽象性を感じとるというのは、まさしく川端的な世界であるという気もする。
そして、碁の名人の世界と、それを取り巻く世界の対照。碁の名人は、不思議な厳密さの世界に生きている。例えば、自分の体温のことや身長のことを聞かれて不思議な厳密さで答えたりする。一方で、対局が進む中でそれを取り巻く自然は悠々と変化していく。このことに川端は奇異な感じを抱いている。「夏の日の強い庭をふと見下ろすと、近代風な令嬢が無心に池の鯉に麩を投げているのが、私には何か奇怪なものを眺める感じで、同じ世のこととは信じられぬほどだった」という感慨は既にかなり早い段階で登場するのだが、それでも碁の対局は続き、「七段が黒七十三を打つころには、真黒な子犬が四頭も、芝生にたわむれていた。そして、また空は曇って来た。」
精妙な事実の積み重ねから高度な抽象性を作り上げる碁の世界、そしてそれを取り巻くのは川端の小説世界をいつも瑞々しく彩っている自然の姿。川端は、その対照に不思議に心を止めている。いやしかし、川端の小説における物語もまた、人間たちの些細な事実の積み上げの中に、不思議な抽象性を作り出していくものではなかったのか。そして、その抽象性と、日本的気候風土は常に通い合っていたものではなかったのか。
この小説にはだから、いつもの川端的世界の典型的な構造と似通うものがあるはずだ。碁の進行と、それを取り巻く風土のずれに奇異な感じを抱いている川端はしかし、物語の中ではそのようなふたつの存在をいつも融合させてきたのではなかったのだろうか。彼がそのとき気づいた奇異さとは、実は自分が作り出す(まるで碁のように精妙で淡々としてしかし高度に抽象的な)物語の奇異さのことであったのかも知れない。

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