《そうだ私は巡礼である。花を摘みつつ風に吹かれつつ
哀しい旅を続けて行こう。》
高群逸枝と言えば女性史学の大家というくらいの漠然とした知識しかないので、このような本を書いていることも知らなかった。この本は彼女が若い頃に四国に遍路旅に出かけたときの記録である。今は四国の遍路にどのような人が参加しているのか僕は実際に見たことがないのでわからないが、少なくともこの本に見る巡礼者たちはまるで幽鬼のような存在である。高群自身も「みんな盲鬼か幽霊かお化けの寄り合いみたいだ」「まるで死の勝利に出ている乞食の群を思わせるようだ」とする。しかし、それも理由がないわけではなく、このような苦しい時代には経済的・精神的・物理的に困苦を抱えた人が多かったろうし、またそのような人でなくては遍路に来ようという動機も持たなかっただろう。結果として幽鬼のような人々が遍路に集まるのである。それにしても、幽鬼のような人々がぐるぐると島を一周している島とは一体なんという島なのか。遍路道沿いには、遍路の墓も数多くあり、「新しいのは杖や傘まで置かれてある」というから、ますます冥界めいている。
ところで高群にとって、巡礼とはどこか「自由」の象徴でもあり、解説の指摘によれば「下降志向」の一端でもあった。その意味では、この遍路旅はきっと彼女の詩作にも、そして女性史学研究にも必然として繋がっているのだろう。「世に哀しき人寂しき人の優しい聖い伴侶となることが私の生涯の使命ではないか――」と記した高群にとっては、遍路旅も詩作も女性史学研究もみな同じであった。「洗濯もしよう、炊事もしよう、読書もしよう、詩作もしよう」。そういう意味では、彼女は遍路の中で人生のテーマを見つけたのかも知れないし、そしてそのテーマの中をいくつも形を変えながら忠実に生きた。それは、とても幸せな人生のような気がする。

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