《そして、皇居の森の木末に、一筋のリボンのように、
青い空が細く残っていた。》
東京を舞台とした川端の作品はいくつかあるのだが、個人的にはあまり面白くない。それよりも、例えば京都などを舞台としたいくつかの作品の方が、川端の文章は冴えるのだと思う。
東京と川端。しかし、勿論、そのような組み合わせがなかったわけではない。例えば、浅草。モダニズム都市としての東京。だが、この小説に出てくる東京は、戦後の、どこか腑抜けになってしまったような東京だ。戦争が終わったことの解放感や明るさはない。実際、主人公たちが会話しているように、戦争中のほうが「家庭」の中ということだけ取ってみれば平和だったとも言えるのかも知れない。この小説の登場人物たちは、戦争が終わったあとの空疎な時間を必死で取り留めのない会話で埋めているような気配すらある。
ところどころに、あの川端特有の、瑞々しい自然の姿も垣間見えるのだ。だが、それが小説全体の力として満ち渡るにはほど遠い。何か失われた時間の周りを必死でまさぐっているような、どこか切迫感と空虚感が唐突に入り交じったような会話。
空間と戦争との距離。もしくは小説と戦争との距離。確かにみんな戦争の話ばかりしている。いや、正確に言うなら戦争の話ではない。戦争との距離の話ばかりしている。過ぎ去った戦争との距離、そして近い将来起こるかも知れない戦争との距離。いや、主人公たちが生きている時代は確かに戦争と戦争の間の、どこか落ち着かない濃密な空白のような時代であったのだ。
そして、戦争ということを考えるなら、東京という場所は確かにその大きな舞台であった。実際、この小説はそれを象徴するかのように、皇居から場面が始まっている。皇居とは、あの過ぎ去った戦争の確実な中心地であった。その場所から――。実際、この小説では「宮城」から「皇居」へと名前が変わったその場所と、そしてその隣に置かれた進駐軍の「司令部」のことが大きな存在感をもって触れられている。
占領された街・東京。戦争に負けた街・東京。「戦争がなかったら」「日本が敗けて」「戦争がすんだ時」と主人公たちは何度もそんな言葉を口にする。実際、この東京はあまり直接的に戦争の惨禍を描いているわけではないにも関わらず、いやむしろだからこそ何か大きな存在感の戦争によって押し潰されようとしている。戦争と戦争の谷間の街。
そして、川端のテーマである「美しい日本」はそのときどこにあるのか。戦争によってそれが滅んだかのようなことを登場人物の一人は語る。しかし、滅んだということはなくなったということでもないような気がする。滅んだ日本の美は、まさしく亡霊のようなものとなって現れる。戦後日本の空疎でかつ賑やかしい空間、あるゆる人がいつも何かを悔悟しているような空間、そこを満たそうとする古き日本の亡霊のような美。いや、確かに戦後の川端の小説はみなそのようなものであったのかも知れない。戦争に負け、国家も、社会も、人々も、みな大きく傷ついたにも関わらず、日本の山河だけは相変わらずの美を湛えている。その事実は驚嘆の事実以外の何物でもあるまい。戦争と戦争に挟まれた美しい山河――それは確かに、ひとつの冥界でしかあるまいが。

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