《あら、私は見たこともないあなたのお家の応接間を、
いろいろ勝手に空想したりして。》
三島由紀夫の解説が面白かった。「季節はただの意匠として用いられているのではない。蕉風開眼の俳諧の真意がそこにあるように、季感は、人間の流転を最も単純な強靱な目でとらえるための唯一の手がかりなのである。」もうひとつ引用すると、三島は「伊豆の踊子」がもっと長い草稿の一部分であったという事実に触れながら、こうも書く。「川端氏の小説は、小説の長さと構成との関係について心を労したりする必要がないのである。」
確かに川端の小説は、小説の体裁を忠実に取っているようでいて、どこか極度に小説からほど遠いもののように思わせるところがある。極めてオーソドックスな小説的スタイルのようでいつつ、しかし小説であるというのはまったくの仮の姿であり、しかもそんなことは作者自身も先刻承知の上、という気がしてならない。川端は小説を書いていたのではない。だが、だとすれば? しかし、幾人もの人が指摘するように、僕には川端の文章はまさしく芭蕉などの俳諧の系譜に連なるものだとしか思えない。三島が正確に指摘した川端の小説における季感の使い方、それはまさしく芭蕉が発見したものとしての季語の運用方法に他ならない。三島は川端をノーベル文学賞に推薦する文章の中で、こうも書く。「現代日本の多くの作家たちにとって、伝統の要請と新文学を樹立しようという願望とは、ほとんど両立不可能なディレンマであったが、川端氏は、詩人の直感によってこの矛盾を易々と乗り越えて、綜合を成し遂げた」。まさしく、川端は小説家というよりも詩人である。しかも、芭蕉以下の日本文芸の伝統に正しく連なる詩人である。ただ、彼の非凡なところはそこに立脚しながらも「新文学」の樹立も易々と成し遂げた。勿論、それはひとつの天才であったからに他ならないだろう。
具体性の積み重ねが詩に繋がるのだということを川端は熟知していたはずだ。そして、その具体性の積み重ねとは、日本的な自然と、日本的な家屋と、そういったものの中でこそ日本語の美は獲得しうるのだ、ということを川端は知っていた。この具体性の積み重ねの中から、不意に大きな抽象性が立ち上る。抽象性とはつまり、空間に対する感受性である。例えば、六月の空間と七月の空間は違う。そのことに対する感受性は、端的に季感というものに現れる。彼が掴もうとした日本の美とはつまり、日本的抽象性のことである。
あるいは、「温泉宿」や「禽獣」などの作品は不思議に類似したイメージの重複による全体構成となっているようにも思えるが、それもまた具体性と抽象性の不思議な関係を示唆しているのかも知れない。
実際、川端世界の具体的な手がかりはいくらでもあるのだ。例えば、裸、そしてそれに付随するさまざまな身体の部位。それらの肉体は、いつもどこか不思議な動物めいている。そして、それを囲むもの。例えば水がそうだ。
川端の登場人物たちはみな、皮膚で呼吸をしているのではないかとすら思わせる。川端の短編で女の片腕を男が預かるという有名な作品があるが、実際川端の作品の登場人物(もっぱら女性)の体はいつもその部位だけが抜け出して、水の周りをもぞもぞと活動していそうな雰囲気を持っている。
そして、確かに川端の作品にはたくさんの温泉が登場する。温泉とはしかし、川端の小説にとって一体何なのだろう? 勿論、彼自身が温泉が好きだったとか、そういう理由もあるのだろうが、川端の小説の中で忙しく湯に浸かる人々は、一体なんなのだろう? 湯の中で、川端の作品の女性たちはまるで何か別物に変身するかのようだ。「真白な蛞蝓のように、しとしと濡れた肌――骨というものがどこにも感じられない、一点のしみもない柔らかな円さだ。蝸牛類のように伸び縮みしそうな脂肪で、這う獣だ」(「温泉宿」)。一体、湯の中に浸かるこの生き物は一体何だというのか。次の一節もある。「水のように透き通った赤坊が生れたのだそうである」(「伊豆の踊り子」)。水の中に浸かる生き物、そして水のような生き物。
しかし、地の中から沸き立った水の中に人間の生々しい体を浸すその行為は確かに、人間と自然の、あるいは具体と抽象の結び目となる行為でもある。そう考えると、それは確かに川端的な世界に相応しいとも言えるのだ。

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