あまりにも有名な書き出しで始まる小説だが、意外に正確に言える人は少ないのではないか。みんな無意識のうちにそのリズムを覚えやすいようにアレンジしているようにも思える。逆に言うと、実はこの冒頭の文章はそれほど覚えやすいリズムではないということ。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
あまりにも有名な一文でありながら、正確には覚えられない一文。この事実は結構示唆的なことであるように思う。例えば、この文章について、一拍置くという韻律の取り方もあってよいはずだ。例えば、雪国という単語の前に「そこは」といったような言葉を置くこと。だが、川端は一拍置くという操作をしなかった。つまり、この一文を一気に読ませようとした。それはしかし、どこか和文脈的な韻律に由来するものであるように思える。このどこかぬるぬるとした韻律は、正確に和文脈の方向を指し示している。だが、それは韻律だけの問題でもあるまい。それは当然に思考のリズムを形成しており、つまりはイメージ形成のリズムを指し示している。イメージ形成にある種の分節を導入するか否か。それは、ある意味で世界の輪郭を、その陰影をはっきりさせるやり方とも言える。川端の文章はそうではない。膠着語たる日本語の構造そのままに、世界を分節のはっきりしない膠着的なものとして描き出す。逆に言うなら、背景が奇妙に全面に立ってくる。
そして確かに、川端の美意識はまっすぐに和的なあるリズムの方向を向いている。解説の中で、川端の文章を「モノローグに拠るもの」として「和歌により強く繋がっている」とする竹西寛子、あるいは「雪国」という作品を「俳諧」を経由して「枕草子」に繋がるものとする伊藤整、どちらも興味深い指摘であると思う。川端の文章は確かに短歌や俳句の文章へと繋がっている。ただ、伊藤整の指摘のほうがより正確であって、彼は川端の文章を「泉鏡花」、「新傾向俳句」、「蕪村」、「芭蕉」、という繋がりの中に見る。ここで「芭蕉」は「和歌の曲線を不正確として避けた」となっているので、つまり川端は短歌よりも俳句の系譜に繋がることになる。そこでは、「現実の描写が、雪や家屋や風俗や虫などでかこまれていながら、ほとんど抽象に近くなっている」のであり、「具象性ということに避けがたくある平凡さや愚劣さや退屈さを伴わぬ文学がこういう風にして可能化されている」とする。
確かに川端の文章は徹底して具体的だ。例えば、この小説の中にさまざまな形で登場する虫たち。その描写を僕はひどく美しいと思う。それはよくくだらない評論などであるように、何らかの象徴であったり、隠喩であったりするのではない。それはどこまでも徹底して具体的なのであり、その具体性が醸し出す総体が不意に抽象性へと姿を変える。このマジックは、伊藤整が正確に指摘しているように確かに何よりも蕪村に近い。
ところで、「雪国」とは勿論、雪が降る地方のことを言うわけで、特別な名前ではない。だがしかし、それが川端の企みであったのかも知れない。一般的な呼称のようであるが、不思議と「雪国」というのが特別な聖域めいた固有名のようにすら思えてくる。ここでも、具体と抽象をめぐるあの川端のマジックが端的に出現している。実際、この雪国とはなんとも世俗的ではありつつ、同時に他の俗世間からは離れた幻想的な空間ではないのか。トンネルの向こうの、雪降る幻想空間。雪、星、月、虫、眼、鏡、硝子。どこか不思議な無音の世界。不思議にゆっくりと滲み通っていく遠近法。どこかしらおもちゃめいた、人形めいた、そんな世界。虫たちの生と死。死んだようでいて生きているものたち。一方で、たちまちに死んで行くものたち。
実際、それは確かにひとつのミニチュア世界のようだ。「雪国」という名の、限りなく現実めいたひとつの模造世界。世界の底。その底はいつもぼうと白く明らんで世界全体を照らし上げている。その世界においては確かに、輪郭ばかりどこか不思議な存在感で際だっているようにも思える。虫たちも、どこか不思議な使者のように世界の輪郭を彩っている。
実際、そこはどこか不思議な光に満ちた空間だ。雪の底、そして星。ほんのりと世界を照らすものたち。それはまるで、小説世界をライトアップする舞台装置のようだ。舞台装置と言えば、まるで演劇のセットのように美しい、あの列車や駅の待合室のことも忘れがたい。有名な冒頭の一文に対して、この小説はこのような一文で終わる――「踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。」
そのようなミニチュア世界における人間たちの身体と、そして感情。しかし、そのようなミニチュア世界だからこそ、その感情はまるで何か昆虫か何かのように不思議にリアルな軌跡を残しながら作品の上を動いていく。昆虫めいた、人間の感情。そう、確かにまるで昆虫のように精巧で、どこか模造品めいてもいながら、しかし一方で極めて生物の匂いを濃厚に漂わせてもいる、そういう人間たちの感情がこの作品には満ちているのだ。これもまた、その人間たちの感情を取り巻く世界が、とてつもない具体性と抽象性の混淆であるところから帰結しているのであろうか。

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