補陀落信仰、もしくは観音信仰を軸とした日本文化や日本文学に対する考察をまとめた本。一貫した理論体系があるというような類の本ではないが、それはそれで面白い。
日本での観音信仰はもちろん西国三十三ヶ所などが有名だが、もともとインド発祥のものであるし(バラモン・ヒンドゥー教の最高神・シヴァ神とも繋がりがあるそうだ)、中国にもチベットにも観音信仰はある。中国の普陀山は有名な観音信仰の聖地だし(ちなみにこの寺の由来には、日本が実は深く関係している)、チベットのポタラ宮は「補陀落」に通じる。それぞれに日本とは少しばかり様子が違うが、観音信仰に変わりはない。日本の中だけでも、補陀落渡海の他、長崎方面を中心に「マリア観音」という奇妙なものも発生したり、また観音はどこか「遊女」的なものとも繋がったりと(吉原が観音信仰の地・浅草の近くにあるのも偶然ではないと著者は言う)、観音信仰は不思議な諸相を各地で見せている。
それにしてもマリア観音にせよ、補陀落渡海にせよ、西洋人たちの眼には奇怪なものとして映ったに違いない。特に補陀落渡海は、悪魔に心を売り渡した行為として映っていたようであるが、まあ客観的に見れば確かに奇怪なものにも見えただろう。いずれにせよ、日本を含む各地に見られる観音信仰の不思議な諸相には興味をそそられる。いわば汎アジア的に「観音」というひとつの信仰対象に対するさまざまなバリエーションが広がっているわけで、場合によっては宗教も超えたその展開は、単にアジアにおける仏教の広がりというよりはどうも違った側面がある。汎アジア・汎宗教的な観音信仰として見直すと、仏教の広がりとはまた違ったものが見えてくるかも知れない。
ところで面白い指摘があって、特攻隊に見られたような精神は実は日本古来のものではないはずだ、と著者は言う。確かに補陀落渡海は一見特攻的なものに近しい部分もあるようにも見えるが、そこには「自己犠牲」という精神はない。そのような観念は明治になって導入されたものであって、明治になって涵養されたそのような精神が国家や天皇のために自己の命を犠牲にするという特攻隊の精神となったのであって、それは実は日本史上において「空前絶後」の精神であったというのだ。そう言われると、なるほどとも思わせる。

0