あれからもう十年以上が経った。今になって考えても、深刻というにはあまりにも突拍子もない事件だったし(どこかしらギャグ漫画めいたコミカルさがどこかにつきまとっていた)、しかしそのように深刻に見えないところがかえってやはりその深刻さを深めているという気もする。戦争やあるいは政治運動であれば、その深刻さが逆に何かの救いになっているような気がする。少なくともそこには大義があるからだ。大義がある限り、その大義を肯定するにせよ、あるいは真っ向からそれを否定するにせよ、その深刻さは大義として延命しうる。戦争の犠牲者は平和の唱導者として生きうるし、政治運動の犠牲者も自由の唱導者として生きうる。
だが、このオウム真理教事件の被害者も加害者も、そのような大義としての心理的救済の余地がない。いったい何のために死んだのか、あるいは傷つき、あるいは罪を負わねばならなかったのか。どこまでもコミカルで、どこまでも浮世離れしていて、であるがゆえにどこまでも悲しい事件。
実際、オウム真理教が起こした凶行の内幕を見てみると、あまりにもずさんというか漫画的で拍子抜けすることが多い。例えばひとつの例は、坂本弁護士事件。彼らの当初の予定では帰宅途中の坂本弁護士を襲い、殺害は坂本弁護士一人だけの予定だった。だが、彼らはその日が「文化の日」で祝日であるとを失念していたため、結果として自宅を襲う一家惨殺という事件に繋がっていく。もうひとつ例を挙げるなら、松本サリン事件。この事件での目標はそもそも、裁判所自体を襲撃することにあった。だが、決行当日にリーダーの村井氏がなんと寝坊してやってきたために松本到着が夜になり、裁判所を襲撃することが時間的にできなくなり、結果としてその宿舎を襲撃する計画に変更された。
実はオウム真理教事件の内幕を見てみると、こんな話ばかりだ。どこか学生のサークルが学園祭でイベントでもやるみたいな、そんな軽いノリがどこまでも付きまとっている。実際、村井氏は「アストラル・テレポーター」という突拍子もないものや、かと思えばやけに現実的な「ビラ配りマシン」などを作ったりしていた。そんな延長にポツリヌス菌配布作戦の失敗などもある。と考えれば、実はサリン散布も、実はそんな漫画みたいな発明や作戦群の延長にあった。実際に実行犯たちもそう思っていたのだ。「松本市でやったことは、マンガみたいな行動だから、大惨事になったことが、どうしても信じられない」(「富田隆」の章)。
どこまで調べても、オウム真理教の人々の行動は確かに漫画みたいでしかない。学園祭ノリの、軽さと、どこか微笑ましささえ感じさせる無計画なルーズさ。だが、それがあれほど世界中の注目を集めた事件に繋がったのだとしたら、それは本当に一体何だったのだろうか。

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