小説家の手による、オウム真理教事件に関連するエッセイ集といった体裁の本で、単に事件をなぞるだけでない分、面白く感じられる部分もある。この中で、著者はオウム事件とアメリカで起きた「人民寺院」事件を比較する。確かに似ている部分と相違している部分が両方ともにある。エキセントリックな行動が目立つ宗教団体だったという意味ではもちろん両者ともに類似しているのだろうが、最大の相違は人民寺院の方は追い詰められたときに集団自殺という方法を選んだ。一方のオウム真理教は追い詰められたときに自滅よりも化学兵器を使った社会全体に対する反撃という挙に出た。それがキリスト教と仏教という違いに由来するのか、あるいはアメリカ人と日本人という違いに由来するのか、あるいは単に教祖の性格の違いだけなのか、それは不明だ。だが、その鮮明に対比できる行動の違いは興味深いものがある。
そしてそれにも増して興味を惹いたのは、両者の共通点である。両者ともに核兵器による世界の終末的破局という未来ビジョンを持っており、そのビジョンに突き動かされて行動した、という点だ。確かに二十世紀後半という時代においては、そのビジョンはさまざまな形に変奏されつつも広く世界中に流布していった。そう考えれば、オウムも人民寺院も、やはり時代と密接に関係を持った事件ではあった。
だが、そのことを前提としつつも、さらに加えてオウム真理教の特殊性がある。この本にもあるとおり、オウム真理教とはまさに「世界を救うために世界を破壊」しようとした団体であった。だが、注意すべきなのは、そのビジョンとは単にオウム真理教だけが持っていた、もしくは麻原だけが持っていたものではなく、実はある一定のサブカルチャーにおいてそれは広く共有されていたビジョンであったということだ。本来は終末のディストピアであるべき廃墟が、どこかしら不思議にユートピアめいて語られる物語を、我々は二十世紀の最後に多く目撃してこなかっただろうか。そこでは破壊と創造が、ディストピアとユートピアが、終末と創始が、不思議な表裏一体となって存在している。
確かに幾重もの意味で、オウム真理教は「世界を救うために世界を破壊」しようとした。意識的にも、無意識的にも。それは確かに二十世紀という世紀が与えた神話だったのだ。そして、その入り口にはもちろん、あのヒロシマがあった。そう考えれば、それが日本という地で起きた悲劇であったことと、オウムの事件は決して無関係ということはあるまい。
そして二十世紀には日本の地でもうひとつの世界規模の事件があった。それは「バブル」だ。バブルとは、単なる経済の過熱だけを意味しない。それは確かに日本がある意味で世界のナンバーワンになった事件であったし、この本にもあるように何か新しいことが日本から始まり、そしてアメリカに代わって「新しい世界モデル」を世界に向けて発信するのではないか、という漠然とした雰囲気がその時代にはあった。オウム真理教事件もまた、そのバブルの影響を何かの形で受けているはずだ(この本の中で、著者の「なぜオウムに入信した?」という問いに若い信者が「この日本に何がありますか? 金と、セックスと、食い物だけじゃないですか」と応える話は示唆的だと思う。オウム的なものは表面的にはアンチ・バブル的なところから発生しながら、しかし根底のどこかでバブル的なものを引きずった事件であったように思うのだ)。そして皮肉なことに、そのような日本に対する漠然とした畏怖と期待を、わかりやすい形で世界規模で打ち砕いたのもまさしくこのオウム真理教事件であった。いずれにせよ、オウム事件についてさまざまな分析が行われてきたが、それがヒロシマとバブルをその内に抱え込んだ日本という地で起きたことはやはり偶然ではないのだと思う。それは一宗教団体の事件というよりも、社会の襞のようなものが奇怪に噴出した出来事であったという印象を禁じえない。
著者も指摘しているのだが、そもそもオウム真理教は宗教としては確かに核心部がやけに空疎だ。核戦争への恐怖と、バブル的な世相への反発を、たぶんそのふたつだけを唯一の動機とし、そしてシステマチックな密教的修行体系(それは著者が指摘するようにどこか「加速装置」的でもある)によって成り立った人々の組織。そこには不思議と宗教にあるべき社会や人々に対するメッセージ性が確かに希薄だ。恐怖と反発と、加速装置めいた覚醒システム。それはしかし、本当に宗教だったのだろうか。
この著者もそうだが、村上春樹など、幾人かの文学者がオウム事件を前に文学の敗北めいたものを告白した。いや、それは確かに宗教ではなかった。文化や社会の、その意識の空白を突いて出てきた、何か不思議な因縁の運動体のようなものであったのだ。