風の中唾ためて貨車見すごせる
月になまめき自殺可能のレール走る
爆音に声を奪られて道化めく
黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ
電話がつなぐ青い五月の気化する妻
いつか星ぞら屈葬の他は許されず
月蝕をべたべたと子の跫音昇る
指話の少女に金属臭の夜の都心
仏壇のない暮らし柿を妻が買い
空耳に前後の死人またふえる
病院のユッカ夜に来ることはなき
画廊まで持込む傘の先鋭し
おなじ夕刊読みゐて戻る家ちがふ
他人ばかりで駅弁を消化する
狙撃兵という死語の下から巨大な爆発
綾とりの地獄へ落ちる雨びつしり
いちにち暗い鏡の隅に薔薇を挿す
珈琲館新聞の死を折りたたむ
市民課へ矢印電話途中で切れ
林田紀音夫の俳句を読んでいると、戦後の日本に、その空間にずっと鳴り響き続けていた、ひとつの悲しく暗い、それでいて怪しく美しい、あるイメージの結晶を思い浮かべる。工業的なものと生理学的なものが綯い交ぜになったような、日常生活とは掛け離れているがそれでいて極度にリアルな、ひとつのイメージ。きっとそのイメージは、ずっと長らく日本人の中に、あるいは日本の社会の中に棲み続けていたのだ。俳句や文芸だけでなく映像や漫画までも含めたさまざまな表現領域で、同一の何かを源にしているとしか思えないその暗く硬質でつやつやとしたイメージは、戦後の長い間あちらこちらで変奏されてきたのだ。たぶん、それは日本人であり、日本の社会があの戦争から負った深い疵であったのだろう。戦後という上昇志向の流れの中で、そのような疵は意図的か無意識にか表舞台からは遠ざけられることが多かった。しかし、それはいつも何かに形を変えて、自らの存在を変奏し続けた。戦後の長い間ずっと。それはたぶん、七十年代くらいまでは顕著に残っていたのではあるまいか。
八十年代になると、そのイメージはすうっと急速に遠近感を無くすように消え入り始め、代わりにあのバブル的なものが姿を現した。それ以降、あのイメージを見かけることはないような気がする。社会は別の形での疵を、暗がりをその内に抱え始めたのだ。
林田の俳句に、無季ということへの言及が付いて回る。だが、はっきり言ってしまうなら、それはあの戦争の疵跡がそれだけ深かったからこそできたことだ。そのイメージが、慄然たるものとして社会の裏側に立っていたからこそ、季語に寄り掛からない(あるいは掛かりたくない)俳句が成立しえたのだ。その生々しいイメージを捉えるためには、確かに季語などは余計なものでしかなかったのだろう。
だが、当然ながら同様の方法論が今も通用するとは思えない。現在において無季俳句を試みようとするならば、不思議とあの戦争前後の時代を幻視するかのような作風の人が目立つのは気のせいだろうか。そして、逆に言うならば、そのような倒錯的レトリックでも採用しない限り、今の時代において無季俳句を方法論として選択することは不可能だと僕は思う(あくまで方法論として無理だということでしかなく、少ない確率で結果論として無季の俳句が出来てしまうことはあるし、これからもあるだろう)。
重苦しい戦争。その記憶が、その疵が、そしてその周りに蔓延るイメージがあったからこそ、昭和の無季俳句は成立しえた。平成を生きる我々は、それに代わりうるイメージの核でも見つけない限り、やはり季語に頼ることを俳句の核心にせざるを得ないのだと思う。そして、それは決して悪いことでもないとも思う。季語は、単に守旧的なものであるという理由だけで破棄してしまうにはあまりにももったいない滋味を含んだものであるのだから。