圧倒的な実体験。オウム真理教事件について書く上で、確かにこれほど圧倒的なポジションはあるまい。何しろこの作者は東大の助教授でもあり、作曲家でもあり、そしてあのサリン事件の実行犯・豊田亨氏の同級生であり友人でもある。そしてさらに、オウム事件の深層を辿る昭和史の追究という視点からも圧倒的な実体験を持っている。それは徴兵されてシベリア抑留の犠牲者となった父、そして日本本土空襲の被害者となった母、という凄絶な実体験だ。
圧倒的な実体験から繰り出される言葉。実を言うと、この作者が語るオウム事件もしくは豊田氏についてのすべての論説に完全に同意するのは難しいかも知れない。それはしかしある程度仕方のないことなのかも知れない。作者は懸命に豊田氏を擁護する。だが、豊田氏と会ったことも付き合ったこともない我々は、その擁護の言葉を完全に信用するのはさすがに難しいように思う。いやそれ以前にそもそも、オウム事件とはそれほどやはり難しい事件なのだ。さまざまな時代の本質的な部分が複雑に入り組んでいるだけに。
そして確かに、この作者が言うように豊田氏のような人物を、そしてオウムの信者たちを、一般の世間からは隔絶した理解不能な人々、というふうに切り捨ててしまうのは間違いだろう。明らかにあの事件の共犯者は(まあ、どのような事件でもその側面はあるのだろうが)「時代」なのだから。だが、と思う。だとすれば、果たしてこの作者はそのような事件の持つ同時代的な本質に十分に肉薄しえたのだろうか。圧倒的な実体験を基にした、緻密で多角的な分析。そのことの重みあるいは意義は認めつつも、あの事件に内在したぼんやりとした薄暗いものに肉薄しえたかという点ではやはり十分ではないようにも思う。こういう言い方はなんだが、作者自身が文中で批判している村上春樹の一連のオウム事件関連書物のほうが、そのような薄暗いものに肉薄しているような気もするのだ。例えば作者が指摘している音声メディアが感情を操作しやすいといったことも、オウム教団のサティアンが(警察の捜査からの逃避しやすさを狙って)県境に隣接しているといったことも、あるいは豊田氏が直面し幻滅したのであろう大学システムの硬直性といったことも、確かに興味深い事実ではあるのだが、あの事件の本質とはどこか少し違うような気がする。
こういう言い方もできるだろう。確かにサリン事件の豊田氏の友人というある意味で圧倒的な実体験を基点とする立場から書かれたこの本は、確かにオウム事件に対してこれまでにない光を当てた。繰り返すようだが、そのことの重みも意義も十分に評価されなくてはなるまい。だが、逆に言うならばこの本は豊田氏からの視点という一点に閉ざされがちだと言うこともできるのではないか。圧倒的な実体験が、逆に十分な普遍化を阻んでいるという逆説。いや、しかしだからと言ってこの作者を批判することもまた筋違いであろう。この作者は圧倒的な実体験を抱え、それを直視し、それと真摯に向き合った。いわば、実体験を持つ彼はその実体験から逃れることはできないし、またそうすべきでもない。また違った立場からあの事件に光を当てることは、また違った立場の人がやるべきことなのだろう。
いずれにせよ、あの事件は何か奥底の深い闇のようなものを孕んでいる。そしてそれは十分に解明されたとも、あるいは解決されたとも言いがたい。

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