『新潮』誌に連載した、文芸評論ともエッセイともつかない文章の集大成だが、この文芸評論ともエッセイともつかないところが実に面白いというか癖になる。分量としてもかなり分厚いものになっているが、なんだかこの長々と続く文章を読んでいること自体が不思議に快感になるような印象があって、彼自身が唱えている小説の「現前性」のようなものをここでも具体化しているかのように思える。文芸評論でもないエッセイでもない、このような文章の趣はたぶん「書評」と言われるものが一番近いのだと思うけれど、評論とエッセイをミックスしたようにだらだらと続いていく書評の文章は実に快感で、池澤夏樹に『読書癖』というシリーズがあるけれど、なんだかこういう本には憧れる。たぶん、思考が内と外を往還しながら続いていく、その感覚がきっと面白いのだろう。純粋な評論にも、純粋なエッセイにもない、不思議な面白さはその往還から来るのかも知れない。
ところで、保坂氏はその職業である「小説」にはっきりとした考えを持っていて(当然と言えば当然だが)、どうにもそのクリアな感じが気持ちいい。彼の小説観ははっきりしていて、つまり小説とは音楽と同じようなものでサマライズできるものではないこと。音楽はその現前性にしか存在しないように、小説もまた時間の流れ、文章の流れの中にある現前性にしか存在しない。その考え方は確かによくわかるし、その上で「小説は意味やテーマではない」と言ったり、「小説としてリアルなことと小説から離れてリアルなことは別の原理」と言ったり、「一望することによっては理解することのできない小説の本性」と言ってみたり、それぞれに頷けるものがある。それ以外にも、「世界がどういうものであるかを考えるための方法や道具を作り出すのが小説」といったことや、小説に「新しさ」を求めるのは「工業製品と同じ」価値観であってそれは「人の関心をひじょうに浅薄なものに向ける」といった指摘や、あるいは「小説があらかじめ想定された書き手の意図の範囲内でおさまってしまったら、小説は人間の思考の範囲の中でおさまってしまう」といった指摘にははっとさせられた。
テーマを新しくすることによって小説を新しくする、そんな時代は確かに近代の工業発達と軌を同じくしていただけのことかも知れない。そこには音楽のような、生き物としての言葉、生き物としての小説――それはおうおうにして人間の浅薄なコントロールを離れていく――といった姿が浮かんでくる。だが、と思うのだ。そのようなテーマの更新による新しさを追究する時代が終わったとしても、それではいったい我々の時代の文章は、言葉は、どこを目指していけばよいのだろう。その問いは、小説のみならず、詩歌・評論といったすべての分野で共通することだろうし、そしてその問いは、いつまでも僕の頭の中をぐるぐると廻っている。