穂村弘+東直子『回転ドアは、順番に』 投稿者: 管理者 投稿日: 9月 9日(火)10時02分53秒
相撲取りの手形にてのひら当てながらサイダー頼む夏の食堂
震えながら海からあがるもういいやモスバーガーに眠りにゆこう
終電を見捨ててふたり灯台の謎を解いてもまだ月の謎
膝たててふたりは座る真夜中のきれいなそらにしみこむように
ゆびさきの温みを添えて渡す鍵そのぎざぎざのひとつひとつに
食卓にTシャツ投げて睨み合う 風鈴の音だけがきこえる
窓という窓から月は注がれて ホッチキスのごとき口づけ
屋根裏に月光充ちてきみもぼくも天才腹話術師の如し
二人乗りのスクーターので買いにゆく卵・牛乳・封筒・ドレス
砂糖水煮詰めて思う生まれた日しずかにしずかに風が吹いてた
インターネットでのメールの往復に添えられた短歌。それをまとめたものがこの本の短歌群らしい。とは言え、勿論出版することはもともと念頭にあっただろうから、メールのやりとりとは言え完全にプライベートなものというわけではあるまい。
この際、インターネットのメールから生まれたというその出自はおいておくとしても、ここでの短歌たちはいかにも「嘘」くさい。というか、「嘘」である。おそらく、どれひとつとして客観的に写生されて誕生した短歌はないかも知れない。いかにもありそうな「嘘」だが、やはり「嘘」は「嘘」。それでも、その「嘘」の中にきれいに読者も丸め込まれてしまう。どうにもみんなが納得できる「嘘」というものがあって、そのツボみたいなものを押さえて作られているようなのだ(特に穂村氏)。納得できる「嘘」というのは、当然ながらどこか既視感にも繋がるのではあるが。
いずれにせよ、現実世界とは別にどこかでフィクショナルな世界(=「嘘」)が広範に共有されているということなのだろう。それは、きっと映画であったり、ドラマであったり、そういったようなものが反復されていくことによってできあがった、想像の世界。どうせ騙されるのなら気持ちよく騙されるのがいい。この本にあるのは、そういった短歌だ。
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石川九楊『筆蝕の構造』 投稿者: 管理者 投稿日: 9月 8日(月)09時59分24秒
「書く」ということは、筆記具がもたらす触覚と、そしてそのことによる痕跡(蝕)が折り重なり(それを「筆蝕」と呼ぶ)、そしてそのことに思考することが深く結合した行為である、といったような所論の本。石川氏の思索の原点とも言えるような本であるが、その指摘にはやはり鋭いところがある。例えば、ワープロ・パソコンによる文章は、話し言葉の延長にすぎない、という指摘。ワープロ・パソコンの文章には上記のような「筆蝕」がないから書き言葉ではない、というのはやや杓子定規な解釈にも見えるが、この指摘には実に実感できるところがあり、ワープロ・パソコンとは「おしゃべり機械」であって、そのようなものの浸透は「野放図なおしゃべりの氾濫となる可能性はきわめて高い」とする石川氏の指摘は、ある意味でまったく正しい。確かに、パソコン・ワープロ(およびインターネット)の浸透によって話し言葉と書き言葉をない交ぜにしたような言語感覚が浸透していることは事実として僕も感じていることだ。とは言え、だからと言ってワープロ・パソコンによる文章を否定せよ、というふうには僕は考えない。「筆蝕」が書く言葉を支えたのは単なる歴史の一時代でしかなく、キーボードが支えるようになってもそれもまた歴史の中の一時代なのだと思う。ただ、そのような書くという肉体的な行為が文体やひいては思考に、深い影響を与えているのだということには自覚的である必要がある(つまり、styleとは文体であり書体であり尖筆である、ということ)。石川氏は、岡本かの子の文章について触れた石川淳氏や吉本隆明氏の論に接し、これは文体でなく筆跡のことを記したものなのではないか、と目を疑ったと言う。なるほど、筆跡と文体、ひいては思考というものがそれほど接近としている、ということは確かにありそうなことだ。
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村上春樹『村上ラジオ』 投稿者: 管理者 投稿日: 9月 4日(木)09時50分48秒
いわゆる雑文というのが結構好きで、昔からよく読んでいた。よく読んだのは北杜夫のどくとるマンボウシリーズ。北杜夫については小説なんて一度も読んだことがない。それはともかく、村上春樹の雑文も結構好きだ。村上氏の場合は、生まれついてのキャラクターというか体質というかあるいは育ちなのか、とにかくいつもどこか垢抜けた文章になる。それが雑文の場合でもそう。そういう部分だけ抜き出して素材にしているからそうなるのかも知れないし、あるいは小説家ならではの観察眼がそのように見せているのだ、ということもあるのかも知れないが、やはり僕には生まれついての何かがあるようにしか思えない。スノッブというものは付け焼き刃でできるようなものではなく、やはりその人の体質やそこから来る巡り合わせみたいなものがある。村上春樹のあとに出てきた亜流・村上春樹たちに比べるとかえって本家・村上春樹は飾らないそっけなささえ感じられるが、逆にそこがスノッブにすら見える。これはやはり生まれ持ったものだとしか言いようがない。
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穂村弘『ラインマーカーズ』 投稿者: 管理者 投稿日: 9月 4日(木)09時49分58秒
五月 神父のあやまちはシャンプーと思って掌にとったリンス
「さかさまに電池を入れられた玩具の汽車みたいにおとなしいのね」
真夜中の中古車売場で思い切り振って渡した三ツ矢サイダー
「眠ってた? ゴメンネあのさ手で林檎搾るプロレスラー誰だっけ?」
「なんかこれ、にんぎょくさい」と渡されたエビアン水や夜の陸橋
曲馬団同窓会のお知らせに微笑みながら震えはじめる
セロテープで直した眼鏡を掛け続けクラスメートを愛するタイプ
指さしてごらん、なんでも教えてあげるよ、それは冷ぞう庫つめたい箱
本当のおかっぱにって何回も云ったのに、意気地なしの床屋め
この本は、穂村氏のベスト版的なイメージの本。いろいろな歌集からの抜粋と、若干の新作を追加している。便利と言えば便利な本だが、それぞれの歌集が持っている凝縮力みたいなものに欠けるように思うのは気のせいだろうか。やはり、ある時代にはある時代の色合いみたいなものがあって、歌集という存在はある隣接した一定期間のものを集めるということに単なる物理的なこと以上の意味があるように思う。魂の色みたいなものは、人生の中の時期によって変わる。こうやって見ると、穂村氏の作品は時期によって手法を変えているということでは決してない。にも関わらず、魂の色がやはりどこか違っている。
短歌についてはそれほど詳しいわけではないのでこれは印象的な話になるのだけれど、短歌の人というのは時期によって手法が大きく変遷してきた人というのはあまりいないような気がする。対して、俳句の場合は結構手法的に変遷を遂げている人が結構いる。もしそういう違いが本当にあるとするなら、それはなぜなのか。
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保田與重郎『芭蕉』 投稿者: 管理者 投稿日: 8月11日(月)12時23分35秒
歌枕というものがあるが、ここにはおそらく保田的文芸観の典型がある。歴史というもの。先人たちの思い。そういったものは、少なくとも日本の文芸を考える上で不可欠のものである、と。「詩人のいのちは歴史だ」と保田は書く。「俳諧を考へる時、芭蕉は道を高所におき、抽象観念からそれを断定する代りに、まづ歴史にのりなほそうとした」。保田によれば、芭蕉こそはまさにそのような日本の文芸の本道を生きた人であった。「彼は歌枕旧蹟に杖をひいて、歴史の嘆きを我ものとすることによつて、歴史を貫くわがいのちのゆたかさを味つた。その日本人のいのちは悲しくゆたかなものの思ひである」。それに対して、例えば十九世紀的な唯美主義とは「神と道を失つたための焦燥に、耐へきれなくなつた誠実な近代詩人の心持」でしかなく、あるいは「写生」には「心の内外に神を見る」という思想がないため歌句の真意は理解できない。さらには、「単に人生の栄枯盛衰や別離哀傷を嘆くといふだけでは、我国の歌心の嘆きや慟哭の本質としてきたものには結ばれぬ」。日本の文芸とは古来から一貫したものであり、そういった「民族の血の嘆きが彼の歌心で泣かれたもの」、それが芭蕉の俳句であった。結局のところ、「近代の歴史観や、詩人の思想に立脚する限りでは、万葉集のもつ最高な詩境の一面には、なほ到り得ないのである」と保田はする。
「歴史」という砦。確かにこの砦は日本人にとって意味がある。西洋や近代に対して対抗するための砦にはなりやすい。実際に、それは大東亜戦争を唱道する砦にもなった。だが、「歴史」ということが本当に文芸にとって有効なものなのかどうか。反近代の道具としては役立ちそうな気もしなくもないが、大東亜戦争史観的にならずに歴史という道具をきちんと使うことができるかどうか。
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高橋順子・他『雨の名前』『風の名前』 投稿者: 管理者 投稿日: 8月11日(月)12時19分37秒
『空の名前』というヒット作があって、似たようなものがいくつか出た。これらもそのようなものではあるのだが、著者が有名な詩人でもあるだけに、内容は充実している。特定地方でしか使われていないような呼称も多いので、すべてが一般的に使える語彙というわけではないが、それにしてもやはり風や雨に対する語彙は豊かだ。そのような肌に感じる自然に対する語彙の豊かさは、やはり生活環境の豊かさを意味すると思う。
個人的にはなぜか「風」編の方が好きだった。たぶんこれは、風の方が直接的に肌に伝わってくるからだろうか。あるいは、垂直運動である雨に対して水平運動である風に惹かれているのかも知れない。文字どおり、何かを運んで来そうな気がするから。風の方が雨に比べてより世俗的だということかも知れない。
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川端康成『美しい日本の私』 投稿者: 管理者 投稿日: 8月11日(月)12時14分50秒
「<雪、月、花>といふ四季の移りの折り折りの美を現はす言葉は、日本においては山川草木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情をも含めての、美を現はす言葉とするのが伝統なのであります」
ノーベル文学賞受賞講演としてあまりにも有名である「美しい日本の私」の内容は、おそらく上の一文に代表させてしまってもよいだろう。花鳥諷詠とは、決して人間から切り離されたものを淡々と詠ずるだけではない。その中から、人間感情も含めた美に飛躍する。それが日本的な方法である。
僕は最近、季語というこの精妙な装置を見直しているのだけれど、それはそういうことだ。日本人は抽象的な思考が下手だなどとも言われるけれども、実はそうではなく、これこそが日本人の抽象的思考方法なのではないか、と思ったりもする。要は、抽象性に直接アプローチするのか、間接的にアプローチするのかの違いだけだ。

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