《今は、冷たい。今は。》
いくつもの三角形が、「私」=「女」を中心に描かれている。主人公が「妻」である三角形。そこで描かれる登場人物はいたって平凡だ。製本工場に勤める夫と、まだ幼い男の子。もうひとつの三角形は極めて歪だ。自殺した兄と、その兄を偏愛した母親。そのふたつの三角形のコントラストの上に、「私」=「女」の意識が流れていく。その歪みの流動がそのまま文体となるかのように。
しかし、ある意味ではそのような小説ならこれまで数多書かれてきたかも知れない。この小説の特徴は、そこにもうひとつの三角形が重ねられることだ。その三角形は、不倫相手であるロシア人との混血青年と、それから長崎という被爆した大地。かくして、みっつの三角形が登場し、小説の時空にさまざまな位相をもたらす。確かにその結果として、島田雅彦氏が言うように「語り手が立つ現在に大きな歴史的時間、宗教的時間がながれこんでくる」のだろう。
だがそれにしても、なぜ長崎なのか。実際、この小説での長崎の描かれ方は、まさしく小説自身がそう記しているようにいささか「冒涜」的だ。キノコ雲を美しいと思う主人公、性交中にその土地のことを思う主人公、死者に欲情する主人公。
そして、ここで登場する被爆という概念はいかにも抽象的だ。やけに演出めいている原爆資料館、すっかり綺麗に再建された浦上天守堂。主人公が接する被爆の追体験は、いつもどこかお芝居めいている。それもそうだろう、あれからもう六十年の時が経ってしまったのだから。主人公は被爆した人間たちの写真を見る。あるいは溶けて融合したガラス瓶に触る。だが、それらも結局どこか抽象的な概念に接しているようにも思える。言ってみれば、それらはすべて博物館のような空間の向こうにある概念でしかない。いわば、現実と地続きの被爆の痕跡はどこにも登場しないし、被爆した生身の人間も登場しない。
だが、この小説の場合はそれでよいのだろう。博物館の向こうのナガサキ。たぶん、そのことは主人公にとって(作者にとって?)ひとつのオブセッションであったのかも知れない。勿論、そのようなナガサキは、林京子などが書いたそれとはまったく異質のものだ。だが、とも思う。確かに、あれから六十年経った今、我々からナガサキへの距離はそのようなものなのだ。博物館を通しての距離。それはまさに、小説のタイトルにもなっているように「温度」の問題でもある。熱を孕んだ生々しさが時間によって落ち着いていく。確かに、今はもう、みな冷たくなって博物館の中に並べられている。
確かに、この小説は温度についての小説でもある。それぞれの三角形の中で不思議な温度(熱意や安心感、愛情)の差があり、その三角形をすべて一人の主人公がひとつの頂点となって結ぶことで、小説の中にさまざまな温度の層が生み出される。博物館の向こうのナガサキということも、そのような温度差の典型例だ。向こうにあるのは六千度にも達した絶対的な温度。だが、それを空調の効いた、演出の効いた、博物館の中に収めることでそれは日常の温度の中に整理されようとする。絶対的な温度と日常的な温度の落差が、その博物館にはある。その違和感、その温度差の持つ決定的な違和感を、確かにこの作者は書こうとしたのだろう。

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