▲海から八丈島三根地区を望む
前回の『島焼け』で触れなかったことなど―
天明5年(1785)から天保6年(1835)までの50年間、八丈島での避難生活を続けざるをえなかった青ヶ島の人びとの暮らしは、それはそれは困難なものだったと思われます。文化13年(1816)の八丈島・八丈小島・青ヶ島の人口は8,312人。(八丈島単体ではおよそ7,500を越えるくらいか?)一次産業が主たる当時の“離島”の人口収容力はごくごく限られたもの。受け入れ元の八丈島からすれば、人口がいきなり200人増えることは、島の存続に深刻な影響を与えかねない出来事だったに違いありません。(ちなみに現在の東京都八丈町の人口は8,500人弱です)
では「八丈島の先住民と青ヶ島の避難民との間で深刻な諍いが起こったか?」というと、少し意外かもしれませんが、そのようなことは起こりませんでした。むしろ八丈島の人びとは物心両面で青ヶ島の人びとを支援し続けました。その代表的な人物が三根村の百姓・三右衛門です。彼は「青ヶ島の再興のために」と私財500両を島役所に差し出しました。(現代風にいえば「青ヶ島復興三右衛門基金」といったところ)その使い道は以下のようなものでした―
まず島役所を通じて江戸へ貸し付けされ、年利60両(1割2分)で運用。そのうちの10両を娘へ(三右衛門は男子の相続人がいなかったようです)。残りの50両は穀物を購入し、青ヶ島の人びとに分配。元金の500両については、いずれ青ヶ島の人びとが帰島した際に役立ててもらう…
よく目安としていわれるのが「1両=6万円」ですから、単純計算でおよそ3,000万円(!)。三右衛門の家は島でそれなりの地位にあったそうですが、それにしても当時の島の経済を思えば(さらには現代の我々の感覚からしても)感嘆するほかはありません。三右衛門は当時47歳。この義挙に対して幕府は、三右衛門に「苗字を名乗ること」や「一代限りの帯刀」を許可することで褒賞しました。(以降、高村三右衛門となります。享年は53歳。青ヶ島の復興を目にすることはありませんでした)
もちろん三右衛門だけでなく、青ヶ島の復興のために有形無形に援助をした八丈島の人びとが数多くいたことが判っています。
沖で見たときゃ鬼島と見たが 来てみりゃ八丈は情け島
八丈島古謡“ショメ節”の代表的な歌詞のひとつで、八丈の風土を端的に表現しているものです。でも「情け島」とは決して八丈島だけではなく、広くこの島国の人びとに普遍的な価値観だったのではないでしょうか。島の寄せ集まりで成り立ち、さして広くもない領土で生きてゆくためには、たぶんごく当たり前に在ったもの。それは現代を生きるわたしたちの心の中にも核として引き継がれていて…
そう信じたくありませんか?