台風去りぬ。これで八丈島までは「間違いない!」(もう古いか)。あとは“運”次第…というよりか“海”次第ですな。いちおうヘリコミューターの予約もしてみたのですが(キャンセル待ち状況だし、高所恐怖症の身としては)、やっぱり“還住丸”で渡りたいなぁ。
ちなみに画像は青ヶ島の島酒“青酎(あおちゅう)”です。生産量が少ない上に輸送コストもあって一部では“幻の焼酎”といわれています。果たして今週末は現地でホンモノの“青酎”を口にすることができるのか!?
閑話休題―
青ヶ島にいつ頃からヒトが住み着いたのか、いまだによく判っていません。先史時代の遺構があったとしても、たび重なる噴火で見つかることはないだろうと考えられています。ただし、起源伝説には史上あまりにも著名なアノふたりが登場してきます。徐福と為朝です。
…孝霊天皇の七十二年に秦の徐福来朝、時に皇仙術を好ませ給ひ、
東の海上に遊行あり。爰におゐて徐福をして童の男女千人を引連させ、
海に入れて蓬莱神山の薬を求させしむるに、その薬を不得、徐福誅を
恐れて敢て帰らず、熊野に有し趣、本朝通誌等の俗書にも見へたり。
此説正しくは、彼薬を探んため、男女千人の童を此海の島々に配し置、
徐福熊野にありて死たれば、配島の男女も再び帰る事を得ず、島に
住付たるにや…『伊豆海島風土記』
徐福が引き連れてきた女童500人、男童500人が、それぞれ八丈島と青ヶ島に分かれて暮らしたというのです。かつて八丈島が“女護島”、そして青ヶ島が“男島”と称されたことは、どうもこの“徐福伝説”が端緒のようです。年に一度、南風が吹く季節になると、(青ヶ島の)男たちが(八丈島の)女たちのところへ渡ってきて、一夜限りの契りを結んだといいます。(うふ♪なんだかロマンチックかも)
そんな島の旧弊を打ち破った人物が、“鎮西八郎”源為朝でした。彼は「男女で夫婦をなすは自然の理」であると、別々に暮らしていた島の風俗を改めさせたのだそうです。
…為朝時代には、青ヶ島から男が来て、それからこの島の女が、海辺に
赤い鼻緒をいれた草履をくんでならべておくと、その草履をはいた人と、
草履をおいた人と、一晩かぎりの夫婦になったそうだ、という話。それで
「南風だよ みな出ておじゃれ 迎い草履の紅鼻緒」という歌はそのときの
歌だそうだといってきいていますが…『八丈方言のいきたことば』
以後は青ヶ島にも八丈島にも、それぞれ男女が住むようになったといいます。ことの真偽はともかく、青ヶ島と八丈島が“大陸系”と“本土系”の2系統の伝説を持つことは、たいへん興味深いことです。
さて―
次回が「青ヶ島渡島記」になるか、それとも恒例(!?)「八丈島探索」となるかは、次週5月26日以降のお楽しみ。それまで更新作業はお休みとなります。ではでは。
行ってまいりま〜す!