▲壷屋焼の甕(八丈島歴史民俗資料館にて)
種子島原人さんから寄せられたコメントがきっかけで、ちょこっとだけ調べもの。備忘録代わりにログしておきます―
種子島焼/種子島では江戸時代初期から能野(よきの)
焼がつくられていたが、明治35年に廃窯となって長らく
焼き物の歴史は途絶えていた。種子島で焼き物が復活
したのは、昭和46年(1971)のこと…
(「街道をゆく/種子島みち」朝日ビジュアル2005より)
能野(種子島)焼/鹿児島県熊毛郡種子島の能野焼
がまぼろしのやきものと愛陶家の注目を浴びてから、
余り永くはない。その発祥については、判然としな
いが、前の鹿児島大学教授の新野稔明氏は、宝永〜
正徳(1704〜1715)が開窯の時期ではないかと
推定されている。(中略)中期になって苗代川陶工の
影響を受け鳥獣草木等を彫線や貼付文としたものも
現れるようになった。
(
三宅美術館HPより)
琉球王府は1609(尚寧21、慶長14)年の島津侵攻後、
1616(尚寧28)年朝鮮陶工を薩摩(鹿児島)から招聘
して「朝鮮式陶法」を学んだ。(中略)その後王府はこの
技術と窯を、那覇の壷屋に統合し、1682(尚良14)年
国家主導の「壷屋焼」が成立した…
…壷屋(ツボヤ)とは、元来は薩摩での「窯場」を指す
呼び名であった。
(小田静夫『壷屋焼が語る琉球外史』2008より)
『9 青ヶ島のカメ どこから?』
青ヶ島村教育委員会編『青ヶ島の生活と文化』(1984年)
に写真掲載の「焼酎ガメ」は、「種子島と思われる」と解説
されているが、このカメは、琉球の壺屋焼の可能性もある
のではないだろうか。
(
南海タイムスHPより)
(↑)現物を見たわけではないのであくまで想像の範疇に過ぎないけれど、おそらく“壺屋焼”とみていいんじゃないかな。小田先生の『壷屋焼が語る琉球外史』(139頁)に青ヶ島の“壷屋焼の甕”の写真があります。たぶん八丈島・青ヶ島間でやり取りされたものかと。
以上―
世界に先駆けて“土器”作りを行ったのは“縄文人”というのが通説です。(例えば長崎県佐世保市泉福寺洞穴から出土した“豆粒紋土器”は1万2千年前のものといわれています)
石器は細かな造形をするのに制限がありますが、土器は製作者のイメージにより近づけることが可能。わが国の「ものづくり」精神は、その頃から連綿と続いている…と、個人的には確信しています。
アートももちろん良いけれど、庶民の生活に“便利”と“潤い”を届けてくれた名も知れぬ数多くのクラフトマンたちに、「乾杯!」です。

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