今では当たり前となった鉄道の冷房車は、運行開始から75年となる。
日本初の連結車を走らせたのは、大阪・難波と和歌山を結ぶ南海電鉄である。
昭和11年に営業運転を始めたが、当時は珍しかった冷房を目当てに、多くの乗客が集まった。斬新なサービスを開始した背景には、並行して走る阪和電鉄(現・JR阪和線)との熱い集客競争があった。
冷房車は同年7月、南海鉄道(現・南海電鉄)が列車1両に冷房装置を設置したのが始まりだ。乗客から好評だったため、翌12年には計8両に冷房装置を取り付け、難波〜和歌山市駅間で、冷房特急の運行も開始した。
「南海電気鉄道百年史」には、冷房車に乗客が集中するあまり、ほかの車両よりも逆に暑かったという話も残っている。
だが、12年に日中戦争が始まるなど急速に戦時体制に移行していくなか、13年には当局から「冷房車はぜいたく、資源の無駄遣い」との指摘を受け、わずか2年という短い期間で姿を消してしまった。
5年に天王寺駅から東和歌山(現・JR和歌山)駅まで全通した阪和電鉄がスピードを売りにしたのは、田畑が多い山手側を走るため直線も長く、高速化が可能だったからだ。8年に運行を始めた「超特急」は両駅間を45分で走り、当時の日本最速、平均時速81・6キロを記録した。
両社はレジャー需要を喚起しようと、競って沿線案内のパンフレットを作製。大阪府岬町に「淡輪遊園」を開業した南海に対抗するように、阪和は同泉南市に「砂川遊園」をつくるなど沿線の開発も進めた。
特に競争が激しかったのは、大阪市街地に近く、人気の高かった浜寺の海水浴場(堺市西区)。阪和は開業当時から、支線を伸ばして近くに阪和浜寺(現・JR東羽衣)駅を設けていたほどで、両社は夏場の乗客を奪い合っていた。
しかし、この競争は意外な形で終止符が打たれることになる。15年、南海が阪和を吸収合併したからだ。戦時体制の中、国により統合させられたのだった。
19年には阪和が運行していた部分だけが国有化され、戦後、JR阪和線に。もし両社の競争が続いていたら、さらに画期的なサービスが生まれていたのかもしれない。
産経新聞より

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