2001/11/16(金) 20:18:00
六本木ABCでM・ブランショ「文学空間」、J・G・バラード「残虐行為博覧会」買う。
ル・グイン「所有せざる人々」読了。
アナレスとウラスという二つの異なった社会制度を持った惑星を舞台にした一人の物理学者の半生。
アナレスでは私的所有の概念がなく、政府も法律も貨幣もない。職業はコンピューターによる抽選、あるいは志願で割り振られ、個人の自発的な労働意欲の上に社会は成り立っている。荒れ地ばかりで作物収穫は少なく、家畜も育てられない為、共同体一丸とならなければ生存していけないのだ。荒唐無稽のようだが、この星で育った物理学者シュベックの生涯を追ううちにこの世界はリアリティを持って迫ってくる。それどころか、犯罪も戦争も無い、貧富の差が無いなど魅力的にすら思える部分もある。
反対にウラスは資本主義社会で、我々にとっては馴染み深い世界のはずなのだが、シュベックの目を通すと、全く不合理で奇異な世界に見える。例えば洋服店に入ったシュベックは、何故こんなに多くの種類の服があるのか?(アナレスでは服は配給品で個人の嗜好を反映させる余地は少ない)、これら商品を作った人はどこにいるのか?(大量消費社会でないアナレスの流通のプロセスは単純である。社会の単位は小さな地方共同体なので、多くの日用品は家内制手工業で作られている)それらを理解できない。それだけなら「ガイジンからみたニッポン」のような単なる異文化モノだが、アナレスの社会が説得力を持って語られてるため、読者がアナレス人のシュベックの視線を共有することが出来れば、自分自身の歪んだ姿を鏡に映すような軽い眩暈に似た感覚を覚えるだろう。
アナレス社会(進化した共産主義?相互扶助を導入したアナーキズム?何と呼べばいいのかわからないが)の大きな問題点のひとつは、イノベーションが起こりにくい事にある。原因は競争原理が働かない事、また、厳しい環境条件下で生活してる彼等にとっては、「生存」こそが第一条件であり、社会にとって直裁に有用で無いような学問や芸術を求める余裕がない事にある。シュベックがウラスに行ったのも、彼の新しい物理学がアナレスでは受け入れられなかったからだ。このあたりの経緯は、共産圏から科学者や芸術家が大挙して亡命した過去の歴史を連想させる。
今ある我々の芸術文化、ひいては生活の利便性が、大衆消費社会におけるムダ、蕩尽、馬鹿馬鹿しいぐらいの金の動きなどに多くを負っている以上、それを否定することは難しい。しかしほとんどあらゆる価値が金銭に交換可能で、他人の貧困の上に繁栄が成り立っている社会が本当にいいのか、という事を考えると、素直に肯定も出来ない。
消費社会の恩恵は認めつつも、「日本に生まれて良かった」と素直に喜べないわだかまりも常日頃感じてる身としては、非常に刺激的で面白い本だった。それになにより、一人の人間の物語として心が動かされる。