(平成22年7月11日入力)
僕と家元氏とツッチーの3人で石畳と石仏が見所の「柳生街道」にハイキングに行きました。

遷都1300年祭と参議院選挙向け街頭演説で盛り上がる近鉄奈良駅から出発です。
「きもかわいい」と人気抜群の1300年祭マスコットのセント君と僕。

まずは春日大社に詣でに行きました。やたら石灯籠の多い参道を行く。

参道には沢山の神鹿がいます。発信機付きの首輪をした鹿を発見。

春日大社弐の鳥居を経由して、柳生街道瀧坂道に入りました。この石畳は江戸時代中期に整備され、昭和初期まで物資の運搬に使われていたとか。。。湿ってツルツルしてて結構歩きづらいです。

柳生街道沿いには多くの石佛があります。コレはその一つの「寝佛」。岩全体の形が人の形をしているかと思いきや、裏に大日如来が刻まれているんだそう。もともと立っているお姿だったが転がり落ちて「寝た」状態になったらしい。信心不足で発見できず。。。

さらに進む、進む。。。

川の向こうに朝日觀音を発見。近くの説明文を読んでみると。。。

…って、本当の地位は「觀世音菩薩」じゃなくって「弥勒菩薩」なんだって。。。人違いですか!?怒っていいぞ!佛様!!!

次に現れたのは首切り地蔵。またもや近くの説明文を読む。

…荒木さんというのはバチアタリな人だということですが、日本刀で石は切れんでしょう。とんだ濡れ衣です。このあと、「ルパンV世」の石川五右衛門の話題で盛り上がる(斬鐵劍が唯一斬れないものは蒟蒻だとか、そんな話題)。

石切峠にある「峠の茶屋」に到着。店主が忙しそうだったので、ココで昼食は取れなかった。

「峠の茶屋」の壁に架かっている槍と鉄砲。飲み代のカタに武芸者達が置いていったものだとか。。。しかし、仕事の道具を大事にしないのはプロとしていかがなものか。肝心の武芸のほうはたいしたことない奴だったと思われる。

茶屋を過ぎて少し歩くと綺麗なトイレが現れる。多くのハイカーが屯している。

忍辱山円成寺に到着。ここまでで12km歩きました。最初はココで帰る予定だったですが、時間があるので更に歩くことにする。
余談ですが、この柳生街道周辺は佛教に關係する地名が多いようです。たとえば、ここ忍辱山(にんにくせん)町【忍辱:他を恨まず苦難を耐え忍ぶ、感情に走らず邪念を起こさない】、それから菩提山(ぼだいせん)町【菩提:煩惱を全て絶って得られる悟りの果としての智慧】、誓多林(せたりん)町【古代インド16國のうちのひとつコーサラ國の王子、ジェータ王子の園であるジェータ林に祇園精舍が創設された】、大慈仙町【大慈:佛・菩薩が衆生を慈しみ、その苦しみ・惱みを救う大きな慈悲】などなど。

後半戦スタート。林間の石畳の道中心の前半戦と異なり後半戦は上記写真のような田園地帯の中の道を行きます。もっとも旧街道筋はもっと歩きやすいところに在ったはずなので、「柳生街道を行く」というよりも、単に「東海自然歩道をたどる」旅です。上記写真はご自身のブログ用の写真を撮る家元氏。

夜支布山口神社(やぎゅうやまぐちじんじゃ)にて。家元氏の視線の先にいるものは。。。

可愛いアマガエルちゃんでしたぁ〜。

大柳生の閑静な田園の中に怪しげな謎の石造遺跡発見。神殿か?はたまた城跡か?天文台跡か?監獄の跡か?古墳か?ドルメン(支石墓)か?2001年宇宙の旅に出てくる「モノリス」クラス、或いは英国・ソールズベリにある「ストーンヘンジ」クラスの発見かも?
…ともかく超古代文明のものの可能性があるので、アーカム財団に通報し、辺りにオーパーツかなんかが埋まってないか調べる必要があると思われる。

「お藤の井戸」に到着。なんでも、江戸時代のある日、この近くにお藤という器量の良い娘が住んでいた。そのお藤が井戸端で洗濯をしていると、たまたま、柳生藩主・柳生但馬守宗矩がこの傍を馬で通った。但馬守がふと、お藤に「桶の中の波はいくつあるか」という
(ふと見かけた美女に話しかけたいのはヤマヤマだが、話題に事欠いて、今考えると非常に下らない)質問を投げかけたところ、お藤が「お殿さんがここまで来られた馬の歩数はいくつ?」と
(地位が上の人間に対し)質問を質問で返す
(という無礼極まりない暴挙を働い)た。但馬守はその器量の良さと才気
(?)を見初めお藤を妻と迎えたんだそうな。里歌に「仕事せえでも器量さえよけりゃ、お藤但馬の娘になる(働かなくても、顔が良ければ、玉の輿)」と残されている。そりゃそうだろう。器量が悪ければ、危うく無礼討ちにされるところであった。
「人は外見が全て」という有難い教訓を今に伝える「お藤の井戸」を後にし、最期の難関・阪原峠に挑む。ガッツポーズの家元氏、実際はお疲れの様子であった。ツッチーは全然余裕。

登りは薄暗いジケジケした山道、下りは明るい木立の中を行くと。。。

「ほうそう地蔵」の前に出た。いよいよ柳生の集落に到着です。

「ほうそう地蔵」は花崗岩の巨石の南面に彫られた地蔵菩薩を中心とした石仏群です。中心となる地蔵は、かつて面部が剥落し、疱瘡を患ったように見えたため、ほうそう地蔵といわれていたらしいのですが、昭和44年、すぐ下の土中より顔が見つかり修復され、今の状態に。銘は元応元(1319)年。写真は地蔵菩薩ではなく、東面の石仏で阿弥陀仏と五輪塔らしい。

この石仏が有名なのは、地蔵からむかって右側に、「正長の土一揆」の資料として中学や高校の歴史の教科書に掲載されている有名な徳政銘文があるからです。何て書いてあるか、わかるかなぁ?

「正長元年ヨリサキ者 カンヘ四カンカウニ ヲヰメ アルヘカラス」
(正長元年より先は神戸四箇郷に負い目有るべからず)と読めます。「正長元年以前にこさえた神戸(かんべ)四ケ郷(大柳生・小柳生・阪原・邑地)の借金(つまり"負い目")は帳消しにする。」という意味です。
※「正長の土一揆(しょうちょうのどいっき)」とは、1428年(正長元年)8月から9月に起きた、室町時代の一揆の一つ。別名、正長の徳政一揆。
※西暦1428年(応永35年)、足利政権の第4代目の将軍である足利義持が1月に死去し、4月に応永から正長に改元するも、さらに称光天皇が同年(正長元年)8月に死去。おりからの凶作(前年からの天候不順)・流行病で多数の死者が出るなどの政治的・社会的な不安が高まる中、同年8月に近江国坂本や大津の馬借(輸送業者)が「代替わりの徳政(=借金の棒引き)」を求め、蜂起。
※その一揆が波及して畿内一帯に広がり、各地で借金苦に苦しんだ農民たちが酒屋、土倉(今で言う質屋・金融業者)、寺院(祠堂銭)を襲い、私徳政(幕府・朝廷の発令に依らず、一揆側や大名の一方的実施で行われる徳政)を行う。これに窮した幕府は制圧に乗り出すも、一揆の勢いは衰えず。
※結局、幕府は徳政令を出さなかったものの、土倉らが持っていた借金の証文が破棄されたために、結果的に借金がチャラになり、鎮静化した。
※奈良興福寺の第27代大僧正・尋尊の「大乗院日記目録」には、
「正長元年九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣に之を取り、借銭等悉く之を破る。官領、之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開闢以来、土民の蜂起之初めなり。」
と記載がある。つまり、この事件は農民が起こした本邦初の一揆であり、歴史上意義の高い事件といえる。なお、僕が高校の時に使用していた山川出版社の『日本史用語集』では出題頻度は最高頻度を意味する「N」。
※この当時、大和国では、興福寺が国内のほぼ全域を荘園化し、幕府から同国守護に補任されていた。その興福寺は、この一連の騒乱の中で、徳政令を認め、公式な拘束力をもったものとして施行した。この徳政令について農民側が記したものが、上記写真の徳政碑文というわけである。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%9C%9F%E4%B8%80%E6%8F%86」と山川出版社『日本史用語集』1988(第20刷)を基に作成

柳生陣屋跡。他にも剣豪の里・柳生を象徴する名勝・旧跡に謎の巨石が神体の天乃石立神社や一刀石(柳生但馬守宗矩の父・石舟斎宗厳が、天狗を一刀の下に斬ったら、天狗がかき消え、代わりに2つに割れた約7m四方の巨石がその跡に残された)があるが、今回は見に行かず。

柳生の里には、このような立派な石組みの上に作られた城のような家がそこいらじゅうにある。

終着点、柳生のバス停。ココまで合計21km。バスは恐ろしく少なく、商店もほとんど無いか、あっても休んでる。ビール贖うにも壱苦労。皆様お疲れ様。

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