新書「サッカーの招待」
20052081 鈴木建太
まず、世界中には二億人のサッカー競技者がいる。時に全人口の5人に1人が同じ試合をテレビなどで観ている。Jリーグの開幕以来ますますファンが多くなり試合ごとにかなりエキサイティングするサッカー。そのルールや戦術の変化、観戦の醍醐味、選手への道、将来の競技方法に名選手の素顔など取材を交えサッカーの魅力を余すことなく伝えるものである。
1993年10月28日午後6時(日本時間29日午前0時)日本サッカーは歴史的瞬間を迎えようとしていた。ワールドカップ決勝大会初出場。誰もが、「夢」が現実となる瞬間を待った。だがそのとき、信じられない出来事が起こった。イラクの選手がヘディングしたボールが、必死にジャンプする日本のゴールキーパー松永の右手をかすめ、日本ゴールに吸い込まれていったのだ。時間はもうない。2-2の引き分けは日本の予選敗退を意味していた。
92年3月にオランダ人のハンス・オフトが監督に就任して以来、日本代表チームは大きな進歩を遂げていた。それまでの日本代表は、アジアでも2流のチームと考えられていた。東アジアでは韓国、中国、西アジアではサウジアラビア、イラン、アラブ首長国連邦など、アジアのトップクラスを構成する国々からひとつ遅れたところにあると評価されていた。
そうした状況を打破し、アジアに二つしか与えられない「ワールドカップ」の座を獲得するために起用されたオフト。彼は短期間のうちにチームのベースとなる選手を決定し、8月に北京で開かれた「ダイナスティ・カップ」(日本、中国、朝鮮民主主義人民共和国=北朝鮮、韓国の4カ国で争う東アジアの選手権)で優勝、11月には「アジア・カップ」を制覇してアジア・チャンピオンのタイトルを獲得した。
そして93年にはアラブ首長国連邦などを相手にしたワールドカップ1次予選で無敗の快進撃をみせ、日本サッカーの長年の「夢」を実現するため、10月カタールに乗り込んだ。アラビア半島の東に突き出たオアシスの国での、サウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、イラクを相手にした2週間の戦いが、全てを決めるのだ。
サウジアラビアと0−0で引き分け、イランに1−2で敗れたとき、日本は6チーム中最下位であった。だがそのときにも、オフトは冷静だった。「これまでは勝たなければならないというプレッシャーがあった。肩に40キロの荷物を乗せているようだった。しかし、これでもう解放されるはずだ。私たちにはもう選択の余地はない。残りの3試合全て勝つしかないからだ」笑みさえ浮かべながら彼はこう語った。そして選手たちは見事にこの苦境を乗り越えた。北朝鮮に3−0で勝ち、「日本サッカー史上最高のゲーム」と呼ばれるゲームで韓国を1−0で下したときには、堂々と首位に立っていた。そして迎えたイラクとの最終戦、日本は勝ちさえすればよかった。勝ちさえすれば94年にアメリカで開催されるワールドカップへの出場権を得ることができたのだ。前半は1-0.試合内容は再びプレッシャーに襲われたのか、ひどいものだったが、後半に同点に追いつかれると再び1点をマークし、2-1のまま時計は45分を回った。信じられないことが起こったのはそのときだった。イラクの右コーナーキック。短くつながれたボールが日本のゴール前に上げられたとき、空中高く飛んでボールにコンタクトしたのはイラクの選手だった。フワリと左に飛んだボールは、彼の執念に導かれるように日本ゴールに吸い込まれていった。日本ゴールの赤いネットが揺れた瞬間、オフトと選手が重ねてきた1年半の努力は水の泡となった。日本チームの苦闘と、それに続く快進撃を2週間に渡って見守ってきた日本の国民はその瞬間にサッカーという競技のもつ底知れない恐ろしさ、そして同時に魅力の一端を見たにちがいない。40年間以上現場でサッカーを見続けてきた記者たちも、「こんなシーンは見たことがない」と言葉を失った。この年の5月15日、Jリーグのスタートで大きなブームを迎えた日本のサッカー。非常に残念な結果ではあったが、10月28日も、日本の国民がサッカーの素顔を垣間見た日として、永遠に記憶に残るだろう。
あるイタリア人記者がこう言った。
「これがサッカーなんだよ」
サッカーは何が起こるかわからない。試合終了の笛がなるまで勝ち負けは決まってない。
今年の選手権はいままでとは違い高校サッカーは蹴って走れるチームが勝ち優勝していたが野洲高校は蹴って走れるにプラスして個々の技術やイマジネーションが備わっていたので勝てた。今までの高校サッカーの歴史を覆した。
「試合終了の笛は次の人生のスタートの笛だ」とある高校の監督が言った。

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