東南アジアの日本企業
「東南アジア地域」を、どの国からどの国までとするのか、その定義はきわめて曖昧である。タイ、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシアの東南アジア諸国連盟(ASEAN)五カ国に、ビルマ、ベトナムなどインドシナ半島諸国を加えた範囲にとどめる場合も多いし、韓国、台湾、香港の東アジア地域をこれに加えるケースもある。さらに、インド、パキスタン、バングラデシュ三カ国を含め、アジアの発展途上国全体を指すものとして「東南アジア」が使われていることも珍しくない。
確かに、韓国、台湾、香港のアジア・グループと、ASEAN諸国、インド亜大陸諸国とでは人種も違えば、置かれている国際環境も違う。従って、外交、政治を論じる場合には、厳密な区分が必要になってくるが、幸い経済関係にはそう厳密な分類は必要とは思えない。
日本もアジアの一部であることは今更いうまでもない。当然、地理的にも至近距離にあるわけで、日本と東南アジアのかかわり合いの歴史はきわめて古い。が、戦前のかかわり合いは、侵略者としての関係であったり、戦場としての軍事的関心であったりした。一口でいえば、“不幸なかかわり合い”であったともいえよう。
戦後も、日本は国内経済の再建に忙しく、昭和三十年代前半までは、東南アジア諸国は“近くて疎遠な隣人”であった。復興には、西欧、アメリカの近代的な技術を取り入れ、一刻も早く世界水準に達することが必要だったからである。いきおい、指導者層ばかりでなく、一般国民の目も欧米に向き勝ちであった。
日本の経済が、この疎遠な隣人たちに目を向け始めたのは、池田内閣が所得倍増計画を発表した三十五年ごろからである。それも、さらに限定すれば、日本企業が相次いで東南アジアに進出、不応なく関係が深まってきたのは四十五年以降だといってよい。たかだか十年たらずの歴史なのである。
しかし、そのピッチは早かった。ひとたびアジアに目を向け始めた日本企業は、それこそわれ勝ちに進出、東南アジア諸国との関係も急速に深まっていく。いまでは、数多くの東南アジアの国々で、外国からの投資額は、日本がトップの地位を占めている。近代的な設備を持つ工場が都市近郊に誕生、これらの国々の雇用改善、経済成長に大きく貢献している。
投資ばかりではない。貿易関係も四十年代にはいり急速に深まっていく。ASEAN五カ国を例にとってみると、五カ国合計の輸出の二十六パーセント(五十一年)が日本向けであり、もちろんトップ。二位のアメリカ向け二十一パーセントを引き離している。輸入も五カ国で、二十三パーセントが日本からのもので、二位のアメリカ十五パーセントに水をあけている。人間の交流も年ごとに活発化しており、商社、銀行などサービス部門の関係も近年ますます深まっている。ひところ「アメリカがくしゃみをすれば、日本はカゼをひく」といわれていたが、いまや「日本のくしゃみは、東南アジアの肺炎に通じる」とさえいわれている。
もちろん、こうした関係は日本側から見ても同じで、東南アジア地域は、アメリカに次ぐ地位を占めるようになってきた。同地域の経済的繁栄、政治的な安定は、日本経済にとっても絶対に欠かせない要素になってきたのである。
しかし、現在までの道のりは決して平坦なものではなかった。たかだか十年の間に、急ピッチで深い関係を作り上げてきたからである。せっかちでモーレツな日本人の方はさほど意識しなかったが、元々豊かな熱帯産品に囲まれ、そうあくせくとせずに暮らしてきた東南アジアの国々の目には「日本の経済侵略か」と写るのである。このため、四十七年ごろから、タイを中心に日本企業批判が相次いだ。四十九年一月の、田中元首相の訪問時には、それがピークに達していたといってよいだろう。
ところが、これとほぼ時を同じくして、石油ショック以後の世界的な不況がこの地域にものしかかってきた。とくに、日本経済の停滞は、東南アジア地域に大きな打撃を与えずにはおかなかった。不況という試練が、東南アジアの国々に「日本との関係の深さ」を改めて教えることになったといってもよいのかも知れない。
日本に対するアジア諸国のきびしい目は決して消えてしまったわけではないが、不況以後、冷静さを取り戻したことは事実である。五十二年七月の福田前首相ASEAN歴訪はその意味で時期もよく、きわめて友好的に行われた。日本側も、戦前、戦中の讀罪意識を表面に出さず、きわめてドライに、できることで、できないことをはっきりと表明する態度に変わってきた。今後、日本と東南アジアの関係は、投資、貿易、文化、政治のあらゆる面で深まっていくだろう。とりわけ、日本企業にとっては、重要な時期にさしかかっているといってよい。新生・中国との関係、既に相当の工業力を持った中進国との調整の問題、取り残された国々への援助・・・新しい要素がここへきて、いっきに表面化し始めているからである。

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