「高野清文さん家族の戦い」より
この地図は、特定失踪者調査会(代表・荒木和博)が拉致・失踪事件が相次いでいることから「大町ルート」と呼ぶ在日朝鮮人による北朝鮮への物資の運び出しルートと、拉致・失踪事件の発生場所を示したものである。
大町ルートは、千葉県の海上(うなかみ)から長野県の大町を通って日本海側の新潟、富山へ抜けている。これが千葉まで延びているのは海上町にかつて、砂鉄採掘などの地場産業があり、在日朝鮮人の事業者や作業員が数多くいたからだという。
拉致事件は、北朝鮮の工作員を在日朝鮮人などの協力者が手助けして発生している。在日朝鮮人の居住地域や、物資の運び出しルートに沿って被害が集中的に出るのも当然かもしれない。
海上町でも、拉致疑惑が濃厚と伝えられる加瀬テル子さんらが失踪しているのである。 図にも示されている「キューポラのある街」として知られ、在日朝鮮人が多かった埼玉県川口市など、半径3キロの範囲に拉致被害者・特定失踪者が6人も出るという惨状を呈している。しかも、ここで救出運動の先頭に立つ藤田隆司さんは、兄、進さんと叔父、藤田慎さん(東京・蒲田で失踪)の肉親二人が失踪者という悲劇に見舞われている。
美幸さんがこの地図を作成したのは、兄の高野清文さんは失踪したのは神津島からだが、実は出生地も実家(長野県塩尻)も、在籍した高校もこの大町ルート上にあるからである。こうした事実をみて肉親が北朝鮮の拉致に遭ったとの確信を深めるのは理由のないことではなかろう。
それにしてもこうした拉致被害の調査が、民間の手で行われ、政府がどこまで関与しているのかが不明というのは実に理解に苦しむことだ。特定失踪者というのは、失踪の原因が北に拉致されたとでも考えるしかほかに見当たらない人々である。曽我ひとみさんや、横田めぐみさんらももともとは失踪者である。しかも亡命者などの証言から、長い間にわたって百人を超す日本人が拉致されているのは確実とみられている。
それなのに政府はまだ、拉致被害者を10件15人から変えようともしない。これでは政府が拉致事件は最優先課題といっても誰も信用しないだろう。(山際澄夫さんHP「高野清文さん家族の戦い」より)
特定失踪者問題調査会・真鍋貞樹専務理事
「千葉・旭町から東京、山梨・甲府、長野・大町を経て富山や新潟に抜ける『大町ルート』という在日朝鮮人の物流ルートがあるんですが、実はこの界隈で相当数の人間がいなくなっている。美保さんはこのルートで拉致された可能性があるんです。事件当時の甲府は、故・金日成主席が創始した主体思想の研究グループの活動が盛んだったんです。」 特定失踪者問題調査会・真鍋貞樹専務理事 (フライデー 4/23号)
全国にネットワーク最大5000人
拉致には「土台人」と呼ばれる、在日コリアンや暴力団関係者による協力者ネットワ ークが関与しているケースが少なくないことも明らかにされた。「調査会」では「全国で最大5000人の土台人が存在する」とみている。
「調査会」の兵本達吉理事によると、拉致工作は、北朝鮮から来た4人1組の工作員 を、10人程度の土台人が幇(ほう)助するケースが多い。土台人の中には「拉致現場 に土地カンがあり、道案内やアジトの提供などを行うグループと、拉致対象者を選定す るグループがあると考えられる」という。 (報知新聞03/02/10)
「大町ルート」について・・・日本人を運ぶルートがあった!
拉致事件が太平洋側で発生し、日本海側に拉致被害者を陸路で運ぶとしたらどのようなルートで運ばれたのだろうか。その一つのルートの可能性として「大町ルート」がある。それは、千葉県の銚子を起点に、東京、山梨、長野(大町)そして新潟あるいは富山に抜ける物流ルートだ。実際にこうしたルートが拉致に使われたかどうかは未だ実証されていないが、加瀬さんの拉致が明らかになったことで、よりその存在が裏付けられることになった。
このルート線上には多くの失踪事件が存在している。失踪者の失踪場所と、当時の住所そして何らかの形でこのルートとの関わりがある失踪者を検索すると、実に、調査会のリストにある約420名の失踪者(登録作業中のものも含む)の4分の1の120名にも達する。しかも、田口八重子さん、久米裕さん、蓮池ご夫妻、横田めぐみさん、そして富山のアベックは、このルート上に発生した拉致事件だ。なおかつこのルートが日本海側に出た場所は糸魚川河口であり、その周辺には上陸ポイントが多数存在する。さらに、このルートには総連の直営パチンコ店が存在するし、工作員が潜入していたのもこのルート上だ。付言すれば、ファン・ジャンヨブ書記が韓国への亡命前に日本に立ち寄った際に、富山方面から東京の小平市の朝鮮大学校に向かったルートでもある。
その「大町ルート」の起点となった千葉県の旭市に、戦前香取航空隊の基地があった。その基地には多くの在日が徴用されていた。戦後、基地の閉鎖に伴い、在日の生活の糧として、前述のように、砂鉄の採取と水あめの生産があった。当時の九十九里は良質の砂鉄が多く取れたという。そのため、日本人も含めて一大産地を形成していた。砂鉄とともに一大産業を形成していたのが水あめだった。水あめの生産にはサツマイモが必要だったが、海上町周辺ではサツマイモも一つの大きな産物だった。
砂鉄や水あめは、東京、山梨、長野を経由して新潟あるいは富山方面へとこのルートが使われて出荷された。そして、砂鉄や水あめは北朝鮮へと輸出されていた。砂鉄は鉄鋼の原材料として、そして焼酎の味付けに水あめが必要だったと考えられる。
[[[[[[[[調査会ニュース Vol.187]]]]]](2004.10.23) 執筆:真鍋貞樹氏 より
