水田芙美子さんの長編小説『片羽の影〜3年F組迷走少女』が水田芙美子さんのブログ
「酔芙蓉」に連載され始めてからおよそ8ヶ月。
14回の連載で、「了」の文字はないものの、どうやら完結したようです。
何度か読み返してみて、実に面白い小説だなとおもいました。
たしかに、水田芙美子さんは文学部で文学を専門に学んだとか、特定の先生に弟子入りしてのいわゆる「文芸修行」はしていないように見えます。
おそらくは、幼少期から読み聞かされるところから始まってたくさんの本を読み、小さな物語から自分の中の物語を紡ぐ作業にずっと勤しんでこられたことでしょう。そこで、既に今の文学的な才能の萌芽が始まったのでしょう。
今の水田芙美子さんの24歳という年齢と書かれている作品の深さや色彩・温度の表現を比べると、はるかに成熟していることがわかります。
私自身も極々幼いころから働いていて忙しかった母親に代わって叔母や祖母やその都度違った人たちから読み聞かされてきた物語とその読む声の温度やリズムそして読み手の解釈によってもたらされる色彩などを感じながら、言葉の色や物語の温もりを紡ぐ楽しさの種を蒔かれてきたのだとおもいます。
今回の『片羽の影〜3年F組迷走少女』では、そうしたニュアンスの側面と「振幅」の部分の力量が強く出ていたようにおもいました。
一般的に商業文学で考えれば、「誰に何をいかに」という部分の明確さをすべて取り揃えることも重要です。
また、いわゆる「文字校正」の部分での詰めの甘さの部分も、気になる方もいることでしょう。
しかし、それは専門スタッフのフォローを前提として稼ぐという図式の中では瑣末な話です。ましてや、改行や約モノの使い方などの取り決めなど、執筆前に作家と編集者が決めておくことで、水田芙美子さんに編集者が付いていない(と見える)以上、この部分はあくまでも作者のやりたいことの実現で誰も批評を加えるべきものではないでしょう。
ここの部分は、「スタンダード」は天才によって変えられて当然な文学の世界では、実は慣習法という惰性でしかないのです。
それはさておき、水田芙美子さんの書いている小説でおそらく気になるのは、大小の関係です。
大は主人公だけではなく、あらゆる登場人物の背景にある「ほんとう」であり、小は「普通にあるもの」です。
つまりは、ありえない世界の上に立って本当を書こうとしているという試みのすばらしさです。
これまでの数少ない私の読書の経験の中では、激しいいじめ表現が突出している乙一さんの「死にぞこないの青」、川上美映子さんの「ヘブン」が、そして激突する自我の中から生み出されるカタルシスという意味では本谷有希子さんの諸作などから受ける強いインパクトに近い感じを受けます。
そして長い長い登場人物の内省・内話・モノローグは先だって亡くなられた栗本薫さんの「グイン・サーガ・シリーズ」の100巻以降によく登場する長くて何度も繰り返される登場人物の心の中が曝け出された臓物のようなモノローグを思い出します。
これらは採算の取れない文学ではなく、書店でも平積みされベストセラーに名を連ねる小説のなかの「表現」です。
つまりは、今は昔のような「外形重視の鋳型への流し込み」でなくても読まれる時代ということです。何せ、読み手は大衆というみんなでとにかく同じものを共有していれば自分はまったくわからなくても幸せ、というひとではなくなってきているからですね。
それゆえ、独自の表現を極めた書籍がたくさん書店の売り場を賑わせているとのです。
しつこく書いてしまいましたが、このあたりの表現の「これでよし」を決定できるのが作者自身というところが、「芸術」かどうかというところですね。あくまでもお金をもらう「商業モノ」と気に入った人が自分の価値観で好きなだけ払う「芸術」は別なのですが、その境界すら曖昧になってきている、または、「ありきたりじゃなく目新しいから売れそうだ」という判断基準で飛びつかれるということでしょう。
どっちにしても環境は整い始めているということかもしれません。
そして、もう一つのヒントは先ほどの川上美映子さんの『ヘブン』。
あの「手に取った九割の読者は読み終わらないだろうな」な処女作で世に問うた作家が、この作品を仕上げたということが今の文学の「養成プロセス」のあり方をはっきりとわからせてくれます。
才能、圧倒的な才能さえあれば、今の時点で何を書いていても問題ではない。
それをいくらでもパラレルに展開でき、よりよき表現もさることながら、そこに「ほんとう」が必ず埋め込める才能があるかどうかが問題なのだ。
そういうものなのだとおもいます。
さて、ようやくタイトルにいたります。
何度も同じようなことをあちこちに書きましたが、この物語のベースにあるものを水田芙美子さんは書き続けているようにおもいます。
それがどのようなものなのかを明確に書き上げられるような能力を私は持っていませんが、しかし、レギュラーな読者である方にはそれは十分に感じ取れることでしょう。
そして、そのベースの部分をどんどん深化させていく中で、今回の作品はスピードが違うなとおもったわけです。
これまでの作品に比べて圧倒的に多数の登場人物を登場させて、その一人ひとりの中にある「ほんとう」をものすごいスピードで収束させて結論の詩に至らしめる。その力量が凄いのだと思い至りました。
単純に通りがかりの読者であれば、おそらく別な感想を述べることも可能です。
それはストレートにお伝えすべきでしょう。物足りないとおもうことがあればきちんとコメントなり手紙なりでお送りすればよいでしょう。
その内容はおそらく精度や簡潔さやベースとなっている展開アイデアについてだろうとはおもいますが。
精度や簡潔性を犠牲にしてでも書きたかったものがあるのですから、水田芙美子さんにも反論はあるでしょうが、しかしきちんと受け入れてくれることでしょう。
小手先のテクニックも重要です。それは、載せる物語が大きければ大きいほど載せる船も大きさが必要になり、たとえ小さな穴が一つでも開いていたら、やがては船は沈んでしまうからです。でも、マニュアルやルールブックがあればそれで十分ですよね。
取り留めのない感想になってしまいました。
なぜかといえば、読者である私自身も、やはり読むたびに揺れるからです。
揺れる理由は読むたびに感情移入するポイントが変わるからなのでしょう。
何度も読み返さなくてはいられない小説の、最も解りやすい共通点はそれなんだとおもいます。
ということで、まずは完結おめでとうございます。
そして、軸はまったくぶれていない。書こうとしている世界観もゆるぎない。だから、この物語をまた食べ尽くして新しい作品のための栄養にしてくださいと祈りましょう。

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