どうやら、始まった様だ。
暫らく前から、私は、或る問題に注視している。その問題に首を突っ込んで以降、私は、Humakti とハンドルネームを変えた。彼《か》の者の様に行動したい、と言う思いからだ。問題が落ち着いたなら、或るいは、私はハンドルネームを元の blackdog に戻すかも知れない。
その問題に進展が見られた様だ。その事に就いて、つらつらと思った事がある。
ネット上の事だ。何処からどの様な人物が私の書いた文章に辿り着くか、判らない。
判らないのだが、でも、まあ、いい、書いてしまおう。
例えば。
私がプロの書き手に対する軽蔑を初めて覚えたのは、何時《いつ》だったか。
その時期に就いてははっきりしないが、その事自体に就いてははっきりと記憶している。
或る映画のノベライゼーションの前書きだったのかの文章に、こんな事が書いてあった。
その映画の為に書き溜めていたアイディアは別にあった。だが、その脚本家の体調がすぐれなかった時期、仕事仲間が彼の元に「何かいいネタ、無いですか」と寄ってきて、ノートに書き溜められていたアイディアを一つ、又、一つ、と持っていった。その為に、その脚本の為の元元のアイディアは、ずたずたにされてしまった。
これを読んだ時に、私はこう思ったのだ。
「何だ、この安直な連中は?」
ま、脚本とか企画とかの職種の人達の集まりの中には、アイディアは何処かから持ってきて、みんなで共有するもの、なんて言う価値観が、ひょっとしたらあるのかも知れませんがね。自らで見付けたり創り出したりしようとするものでは無く。
例えば。
或る、電子書籍に就いての草分け的な事柄を解説した、その本の中にこの様な記述があった。
その著者は少女漫画の原作の仕事をしていた。その人物の原作は、当人が言うには高く評価されていたそうだが、その彼が使っていた手法とは、歴史の登場人物や状況を、現在の学校生活とかその他の恋愛物語に置き換えてしまう、と言うもの。
因みに、この技法に就いては別の、ライトノベルの書き方の指南本でも紹介されていた。ストーリーを作る(創る、と呼んでやりはしないよ?)にはこの様な方法を使いましょう、と。
この事から、私は、次の様に推測している。この技法は、特に短期間での生産性の高さが求められる、漫画とかライトノベルの現場では知られていて、全てとは言わないが、しかし或る程度の割合を以て、それを使用している人間がいる、と。
その様な行為の結果は、コピーか、コピーのコピーか、それ以上にコピーを繰り返したものか、と言う自家中毒に至る事、必ずなのだが、しかし、ひょっとしたらプロと言うものは、自ら進んでその様な状況を作る出す作業に従事するものなのかも知れませんねえ。
或るいは、例えば。
業界人で無くとも、私の程度の人間ですら、前述の様な匂いを嗅ぎ取る。ならば、私と同様の人間は、恐らく相当数、存在するだろう。唯、わざわざ自分がその様な人間であると言う事を、宣伝したりしないだけだ。
既にその様な、業界の体質と言う匂いを感じ取っている人達は、仮令《たとえ》、偶然の一致であろうとも、以降、それらしき事象に就いては、その様に推測する。
例えば、此処、何箇月かの格闘絡みの漫画のお気に入りのネタは、無拍子だ。或る漫画で無拍子のネタが使われると、何週かを置いて別の格闘漫画で又、無拍子が使われ、又、何週かを置いて……と言う事が、繰り返される。
例えば、今週号の週刊少年ジャンプ中の何作かに就いては編集部で或るルーチンワークが使用されていて、毎号……例えば今号では「クイズ」とか「パズル」とかの共通キーワードからの連想を元に、それぞれで毛色を変える程度のやり方で、話が作られている。
その様に思う人も、出るかも知れない。
成る程、一定期間中に決められた量を生産する、と言う点に於いては、確かにプロの仕事なのだろう。何時《いつ》、やってくるか判らない発想に頼る事は出来ない。アイディアは元を何処かから持ってきて、その要素を別に持ってきた何かと入れ替える程度の、簡便に行える「作業」を用いなくては、生産性を維持出来ない。確かに、その通りだ。
只、それは、そちらの都合だ。
何を言いたいのかって?。
私が何を言いたいのかが判らない人は、幸福だ。
そして、私が何を言っているのかを理解出来る人間は、心せよ。
私達の姿が見えなくとも、私達、不特定多数は、常に、存在する。唯、面倒臭い、と言う理由から、余程の何かが起こらない限り、自らその存在を示す事をしないだけだ。
私達は通常、水面下で行動する。その点で私達は、痲痺に似ている。指先から体幹に向かって細胞の壊死が進行しても、意識は痛みを感じない。気付いた時には手遅れだ。
内輪での立場の上下とか、宣伝とか、黙殺とか、その様な小手先は、私達には、作用しない。
仮令《たとえ》、「私」は滅びようとも、「私達」は、決して、滅びない。
心せよ。

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