先日、芥川賞の受賞者が発表されたそうな。
それを聞いて思い出したのだが、私の好きなの中島敦の短編「光と風と夢」は芥川賞の受賞を逃した作品で、その事を知って以来、芥川賞と言うのは私の中では、受賞した人間よりも受賞しなかった人間の方が偉い賞だ、と言うイメージが固まっていて、えー、すいません、どう話を纏めていいのか、段々と自分でも判らなくなってきたので、取り敢えず、芥川賞の受賞者の方、おめでとう、と言っておきます。
さて。
さる縁があって、先日、下の賞へと投票を済ませた。
日本文芸ラジー賞
http://razzieawards.web.fc2.com/
文芸ラジー賞とは何か。それは本家本元ラジー賞の文学版であり、ではその本家本元のラジー賞とは何かと言うと、それは投票にてその年の最低最悪の映画、及び各部門を表彰?しようと言う映画賞である。
要するに、文芸ラジー賞とは、その年の最低最悪の文芸作品・雑誌を選ぶ為に開催された賞な訳だ。
cf. ゴールデンラズベリー賞
http://ja.wikipedia.org/wiki/ゴールデンラズベリー賞
しかし、私が投票を済ませた後、なかなか投票数が伸びなかったこの賞に、皆の投票を促す為の、重大な仕様の変更が加えられた。
以下は、【文芸誌部門】投票ページ。
http://vote1.fc2.com/poll?mode=browse&uid=4613754&no=2
そして目にせよ、燦然と輝く、「1冊も読んだことがない」の選択肢を!。
さて、お立ち会い。私が本日、この様な雑文を認《したた》めているのは、皆様を、投票にお誘いする為である。
読んでないでしょ?、純文学なんか。ほら、あなたも、あなたも、あなたも。上記の「1冊も読んだことがない」は、正しくそんなあなたの為の選択肢。
そしてこれは、そんなあなたに漸く訪れた、意思表明の機会である。
成る程、今迄、気付きもしなかったが、確かに考えてみれば、文学賞の選定者に、文学を読んだ事がある人だけを対象とする事は、おかしい事だ。仮に、お文学様と言うものを読んでいるのが集団の内の 1% だとして、その 1% のみの人間が何を言った所で、その集団の特徴・特質を表しているとは言い難い。文学に拘わっている者達が、人間とか、歴史とか、もっと言うなら世界とか、そんな大きな言葉で物事を語ろうとするのなら、世界の 99% を構成する未読者に、「いや、お前達はそんな事を言える程に、全体と言う訳じゃ無いだろう」と、反論する為の機会があって然るべきだ。
(註:あえて詭弁を弄しております。只、論理的におかしいこの論旨の、何処がおかしいのかを論理的に指摘出来ないのであれば、黙って見ているよろし)
まあ、お祭りが出来ればいいんだけどさ。
でも、そう書く一方で、これは割と本気で、文学と言うものに、あなた方は読まれていないんだよ、と言う事実を、突き付けてやった方がいい、とも、思っている。
何しろ、ちょっと見ただけで、文学と言う言葉は、マイナスイメージの塊だ。
まあ、沢山、ある内の一つ二つを、数え上げていくなら、さ。
シェイクスピアの話をしようか。
ロミオとジュリエットは互いに出会い、恋に落ちた。
二人の家の仲は険悪だ。この儘では二人が結ばれる事は無い。
其処でロミオは修道士に相談し、一計を案じた。自分が眠り薬を飲んで服毒自殺を装えば、死んだと言う事で、自分は家とは無関係になる。そうして眠りから醒めた後なら、自分はジュリエットと結ばれる事が出来るんじゃないか。
そして、その計画は実行に移される。ロミオは眠り薬をあおり、自殺したものとして、棺桶に入れられた。
其処に一つ、誤算があった。
他の周りの人間と同様、ジュリエットも又、ロミオが本当に死んでしまったものと信じてしまった。
愛する者が死んでしまったからには、自分も、生きていても仕方が無い、とジュリエットは、自らの命を絶つ。
そして、眠りから醒め、ジュリエットの死を知ったロミオは、今度こそ本当に、自殺をするのだ。
さて、これに就いて、幾つかの質問をしよう。
この物語の舞台は、何処?。うん、そう、イタリアのベローナ地方だ。って、でも待ってくれ、じゃあ、その物語の作者であるシェイクスピアは、何処の国の人?。そうだ、シェイクスピアは、イギリス人だ。
この物語の主人公、ロミオは幾つ?。答えは、15 歳。因みに、お相手のジュリエットはこの時、13 歳だ。
この、二人が出会ってから、互いに自らの命を絶つ迄の間の期間はどれ位?。この「ロミオとジュリエット」と言う物語は、5 日間の間に起きた出来事の話だ。
以上を踏まえて、じゃあ、この「ロミオとジュリエット」と言う話は、今で言うのなら、どんな話?。
日本の誰かが書いたなら、それは多分、こんな話だ。
主人公は中学生、二人。かっこいい男の子と可愛い女の子。
舞台は、情緒漂う外国。イギリスとかフランスとかドイツとか、どっかその辺。
出会って恋に落ちた二人が、結局、結ばれずに死んでしまう、悲しいお話。
ねえ、これってどう言う話なのさ?。
その通り。この話は、今で言うところの、漫画とか、ライトノベルとかで書かれる様な話だ。
だからシェイクスピアは、同時代の批評家に思いっ切り叩かれている。具体的にどの様な叩かれ方だったのか迄は知らないが、恐らくはその中に、とてもとても使い勝手がいい、便利な言葉、即ち「人間が書けてない」という奴も含まれていただろう、と推測する。
でも、それから数百年の時が経った。そんな同時代の批評家の言葉とは別に、シェイクスピアは大衆から愛され、受け入れられ、長い命を得た。
では現代……つまり、シェイクスピア作品がもう既に成功したものであると確定している、この時代……に於いて、今の文学者達から、シェイクスピアはどの様に扱われているか。今度は、掌を返した様な、「文学作品」と言う扱いを受けている。
こう言う扱いのされ方を知ったら、訊きたくなるよね。「じゃあ、文学界隈って何なんだよ」と。
この様な例は、これだけでは無い。
例えば、ドストエフスキー。『罪と罰』は、新聞に連載されていた大衆小説だ。人間の真実の姿を描いた文学として読まれていたんじゃない。サスペンスの物語として読まれていた。多くの人が支持したこの作家、この作品を、しかし当時の文学絡みの人間は、批判した。では、そのドストエフスキーは今、文学絡みの人間から、どの様に扱われているだろう?。
文学はね、読まれないよ。少なくとも、「文学」と言う名前を付けられたら、さ。
長々と書いてきた。だが、その理由は、簡単な話だ。一言で言う事が出来る。
作品には、罪は無い。どんなに詰まらない、下らない作品でも、罪迄は、無い。
罪があるのは、何時《いつ》だって、人の方だ。

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