2016/9/25

燃えよ祖国通巻225号  

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【編集後記】

★今年も、愛宕山にて行われた尊攘義軍の慰霊祭に参加した。いや参加できると言うことに感謝しなければならないと思っている。折から、東京には台風が直撃。激しい風雨の中で、終戦時に亡くなられた十二烈士女の方々を思った。勿論、その諸烈士とは一面識もない。しかし、「亡くなられた人が、人々の心の中に単に記憶として残るのではなく、亡くなった人の魂あるいは生き方や言葉が次の時代を生きる人々の追憶となり、その人生を膨らませたりする。これを『死後生』という」。これは、野村先生の「生誕祭」の折に犬塚博英氏が寄せた一文である。民族派の末席を汚す者の一人として、その方々の「死後生」に恥じぬように生きなければと思っている。
★愛宕山の蝉しぐれが遠ざかると、早や「群青忌」である。二十三年祭の今年は、山平重樹さんが、幻冬舎より『激しき雪―最後の国士・野村秋介』を上梓された。野村先生のそばにいるようでも、忘れていたエピソードや、「ああこんな人もいたな」といった昔のことを思い出して嬉しくなった。私としては、野村先生のことを書いた何を読んでも、感傷的になってしまうのだが、山平さんの新刊本を読んで、一人でも多くの人が、日本の伝統や文化、そして不条理と戦うと言うことはどういうことなのかと言うことを学んで貰いたいと思っている。
★七月に相模原の障害者施設において元職員の男によって、十九人もの人が殺害され、さらに二十七名の人が刺傷された事件は、国民を震撼させた。しかし、その事件に対して民族派の側から思想的な論評と言うものが、私が知る限り於いてほとんどなされなかった。そういった意味において、政経調査会の槇氏の「優生思想」を基にした、今回の原稿は、私にとっては瞠目するものであった。読者がどのような感想を持つのか・・・。忌憚のないご意見を寄せて頂けましたら幸いです。
★中村之菊さんの「戦跡訪問記」も圧巻である。タイに在住の椿荘子さんとともに、皇軍の名誉を恢復するために、地道な作業を続けられている。女性が、政治のトップリーダーになる時代である。いつの日か、中村、椿のお二人が、民族派の名門組織大行社の重責を担う存在になることを願っています。そして貴重な紀行文をお寄せ頂きましたことを心から感謝申し上げます。     蜷川記
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2016/8/27

燃えよ祖国通巻224号  

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【編集後記】

★私事で恐縮だが、今年の春ごろから腰の右側部分の痛みが続いていた。私の父は、背中が痛いと言って整形外科に行き、しばらく入院していたが、精密検査の結果、すい臓癌で、それからすぐに亡くなった。それが頭にあって大学病院で内蔵のMRI、エコー、内視鏡の検査を行ったが異常なし。痛いと言っても日常生活に差しさわりがあるわけでもなく、安心していた。それが、八月に入ってから、その痛みが腰全体の激痛に変わり、仕事どころではなくなった。
整形外科での検査も病院をかえて二度行ったが、特に異常は見当たらないとのこと。思い当たるのは、春ごろから、PCの前で座ることが多く、日課にしていたウォーキングに出ることも「忙しい」と言うことを言い訳にして行う回数が減った。傷みが治まらないので、痛み止めを貰って、腰を温めるような治療を行ったが、あまり効果はなかった。人に薦められて接骨院に行って、マッサージや腰にチリチリする電気を当てた治療を行なった所、少し良くなった。椅子から立ち上がる時が苦痛だったのが、それほどでもなくなり、週に二回ほど接骨院に通っているのだが、徐々に良くなっている。面白いのは、接骨院へ行けば、腰の痛みは、整形外科など行っても治らない。と言うし、整形外科に行けば、また同じことを言うのだ。とどのつまりは、両院とも加齢、すなわち歳のせいにされる。ムカッとしたので、医者に、「じゃあ先生よ、金のないのも歳のせいか」。と言ってやったら、目を白黒させていた。そんなわけで発行が遅れました。平身低頭です。       蜷川記
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2009/4/25

燃えよ祖国 通巻171号  

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 折々雑感

私の敬愛する時代小説の作家に宮城賢秀氏がいる。記憶が定かではないが、初めてお会いしたのは、野村先生が河野邸焼打ち事件で戦線復帰した際に拠点を置いていた蒲田の事務所だったと思う。暮れのある日、森田忠明、笠原正敏といった諸兄が新聞の発送作業を終えた深夜に忘年会を催すというので、顔を出した。すでに諸兄等は酩酊しており、そこで琉球独立党の歌を歌っていたのが若き日の宮城氏だった。竹中労氏の門下として当時から縦横無尽の活躍をなされていた。それから幾十年の星霜が移り、平成十八年の十月十七日に帝国ホテルにて宮城氏の時代小説百冊出版の記念会が行われ、出席させて頂いた。
その宮城氏が備忘録として発行しているのが「三星天洋」という小冊子。小冊子と言っても、小紙のような手作りのものではなく、印刷所で作った本格的なものである。大体半年分ほどの宮城氏の日常を記したものだが、これが読んでいて、ドキュメンタリーのように面白いのだ。
例えば、平成十八年の四月一日(土)には、「正午、妻を伴い、真間山弘法寺へ行き、境内の枝垂れ桜を観る。近所の中華料理『東魁楼』で昼食を録る(妻同伴)午後、学習研究社より、出版契約書が届く。『平八捕物帳』(学研M文庫)の契約書である。右記作品は初刷り、三万部(五月発売予定)
二日午前、『平八捕物帳』校了。四日午前五時、『平八捕物帳』「あとがき」脱稿五・五枚。O氏へ右校と右稿を宅送。五月発売ゆえ四月末日には見本ができあがるであろう。O氏は、フリーの編集者、私と学研の仲介役であり、阿吽の呼吸で仕事ができる。
寄贈・「青年戦士」
 といった具合である。私もいつか宮城氏のように読んで楽しい備忘録を出してみたいと思っていた。そこで今回は読者の皆さんに甘えて、「白雲去来」のみで一冊作らせて頂いた。一年前の日々ですが、なにとぞご寛容のほどをお願い致します。
残暑厳しき折から、皆様のますますのご健勝を心からご祈念申し上げます。

 平成二十一年八月   蜷川記
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2009/2/25

燃えよ祖国 通巻170号  

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 折々雑感

★本号は、去る四月三日に札幌で行われた「北海道青年フォーラム」を特集した。基調講演を行なった山浦先生は、早稲田大学時代より民族派の学生運動では指導的な立場にあり、ユダヤ問題研究の第一人者として知られている。現在は「月刊日本」で健筆を振るわれており、私供が公私共にお世話になっている先輩の一人である。現在発売されている保守系の雑誌の中で「政治を読む」ことに関しては「月刊日本」がその白眉ではないかと思っている。弊社の機関誌も勿論だが、こういった民族派系の雑誌が売れるという現実そのものが、日本の真姿を恢復することにつながる。
★札幌と言えば、昨年の十月にも群青忌を引き継いだ形で、「群青の集い」を開催して頂いた。僧籍にある田中清元氏と神職の前田伏樹氏、このお二人の人柄で札幌の集会が続いていると言っても、決して過言ではない。お二人とも私とは、昭和四十年の後半からのお付き合いであるから、お互いの奥さんよりも長い。私にとっての札幌行きは、言わば同窓会に出席しに行くようだ。
★「白雲去来」だが、親しい方々より「一年も前の行動記を読んでいてもつまらん」と、良くお叱りを受ける。考えて見れば、その通りで、そういう私でさえ、今月号に掲載されている、昨年四月の出来事を読んでも、「ヘェー」っと言った感じで読んでいる。旬がとっくに過ぎたものを読まされている読者の皆さんのことを思えば、正に平身低頭、赤面汗顔でしかない。
中には、私の日常のだらしなさを読んで悦に入っている人もいるらしいので、一度、一冊そのまま「白雲去来」にしてみようかとも思っている。封筒を開けた途端に酒の匂いがしましたならば、平に、平に、ご容赦の程をお願い致します。
★私が責任編集をしております、季刊「大吼」の夏号が発売中です。特集は「北朝鮮のミサイル発射と日米関係」です。
慶應の小林節先生をはじめ、国際問題アナリストの藤井厳喜先生。憲法論の碩学、弁護士の南出喜久治先生、四宮正貴先生、そして大行社の小針政人君が論陣を張っております。是非共、ご一読下さい。
(蜷川記)
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2009/1/25

燃えよ祖国 通巻169号  

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 折々雑感

★週刊新潮との戦いも過ぎてしまえば、ずいぶんと昔の話のような気がしてならない。しかし考えてみれば、わずか二ヶ月前のことなのだ。旬な出来事も、二か月も過ぎると遠い過去の話のように思えてくるから不思議だ。
だからこそ記録に留めておくことが必要で、こういった特集がいずれ必ず生きてくる。
新潮のその「虚報報道」に対して、様々な雑誌に検証と反論を書かせて頂いた。一番反響があったのは、何といっても「WiLL」で、新聞の広告に私の顔写真が出た時には、さすがに驚いた。行きつけの飲み屋で、見知らぬ人から、「新聞広告で見ましたよ」などと声をかけられたり、何年も会っていない友人から久しぶりに連絡を頂いたりした。その他は、「週刊朝日」や「実話ナックルズ」、そして連載させて頂いている「実話ドキュメント」などである。
前号に掲載した新潮社からの謝罪文に決して納得をしたわけではないが、微力ながら、私なりの戦いは出来たのではないかと思っている。
また、青年思想研究会の市村清彦元議長の「顛末記」の第二弾も、今回の虚報報道の糾弾を終了するには最もふさわしい原稿だと思っている。ご支援を賜りました皆様に心から御礼を申し上げます。
★私は、ほぼ毎日「白雲去来」という日記をパソコンで公開している。当然不特定多数の方たちに公開するのだから、肝心な所はあえて書かなかったり、ぼかしたりする。たとえば、会合の場所や内容、人の名前などである。考えてみれば、私のような一介の浪人風情の日常に興味を持っていただけるだけでもありがたい。ズボラをして二、三日更新するのをサボると、愚妻の方に「蜷川さん、何かありました」とか言う連絡が入る。私のブログの履歴を調べてみると、大体二百五十人から三百人くらいの人たちが読んでいてくれる事が分かる。その人数が多いのか、少ないのか分らないが、とにかく読んでくれる人がいる以上、頑張って更新しようと思っている。
ちなみに、私のブログのアドレスですが、パソコンで見る場合は、
http://snforever.blog.ocn.ne.jp/blog/」です。
携帯からですと、「http://portable.blog.ocn.ne.jp/t/typecast?blog_id=501742&user_id=226901」です。
「白雲去来」で検索して頂いた方が早いかもしれませんが…。(蜷川記)
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2008/11/25

燃えよ祖国 平成20年11、12合併号 通巻168号  

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 折々雑感

★ようやく新潮社との戦いが終わった。もちろん百パーセント納得をしている訳ではない。その理由は、幾ら個人的に謝罪文を受け取ったとしても、週刊新潮の記事の中に、児玉、野村両先生に対する謝罪文がなかったことだ。
もう一つは、島村が証言を翻す直前、四月七日の産経新聞に掲載された新潮社の関係者と称する者のコメント。「右翼団体や元米国大使館職員については、双方が納得する形で話し合いを終えている。こちらが誤報を認めて謝罪するようなことはしていない」との記事である。読むようによっては、我々が元米国大使館職員同様、金銭的な解決をしたように思われる。冗談ではない。この記事が出た時点では、謝罪も「口約束」だけで、何一つ実行されていなかった。もちろん金銭的な解決などするわけがない。ナメンナよ、と怒りが込み上げてきた。しかし、マスコミと我々が共闘した「島村包囲網」が最終段階に入っていたおり、新潮社が「大恥をかく」との確信があったので、何とか怒りをこらえた。この翌日である島村がマスコミ各社に新潮社への証言を翻したのは。その後の新潮社のドタバタは、ご存知の通りである。
★結果的には大勝利であろう。事情通?によれば、新潮社は謝罪文を書かない、出さないことで有名らしい。不思議な話ではないか。人間は聖人君子ではない。誰だって過ちを犯す。その時に、その過ちを認めて、謝罪するかどうかで、人間の価値が分かる。もし謝罪することが「不名誉」あるいは、「社に傷がつく」などと言う考えがあるとするならば、それは誤りである。いくら時代が変わろうとも、日本人が「潔さ」や「素直さ」を愛する民族であることを忘れてはならない。
★また実名報道の第三回目(二月十九日号)に、佐藤優氏のヨタ記事を補足するようなコメントが掲載された。もちろん佐藤氏の本意ではないかもしれないが、我々にしてみれば納得しがたいものだった。私の中に「わだかまり」として残ったが、「アエラ」の四月二十七日号において佐藤氏が「心境」を書いている。その真摯な言葉を、素直に受け止めた次第である。
★今回の新潮社との戦いに際して、ご支援を頂きました皆様に衷心より厚く御礼を申し上げます次第です。有難うございました。
★巻頭の拙稿は、「WiLL」に発表したものを加筆したものです。
ご了承願います。    (蜷川記)
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2008/10/25

燃えよ祖国 平成20年10月号 通巻167号  

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 折々雑感

★昨年の十一月に札幌在住の盟友、仏心塾の田中清元、学純同の前田伏樹両氏にお願いして前月に東京で開催した「群青忌」の報告を兼ねて、追悼集会「群青の集い」を開催して頂いた。文中の私の挨拶の中でも述べたが、お二人とは長いお付き合いをさせて頂いている。前田氏との出会いは、私が、前田氏が所属していた、現在の学純同の前身、「学生青年純正同盟」の庶務長の頃、確か昭和四十八年だったと思う。学純同が発行していた機関誌の購読をするために事務所を訪ねた折に、応対をして頂いたのが前田氏だった。その頃、学純同に所属していた長谷川光良氏は、総評のデモ隊への車両突入事件で、黒羽刑務所に服役中だった。前田氏から、大場俊賢総裁(当時)をご紹介して頂き、学純同が毎月、史蹟、小石川後楽園の小部屋で開催していた勉強会などに出席するようになった。その勉強会で忘れられないのは、戦前からの民族派の指導者である寺田稲次郎先生や中村武彦先生の講義を聞いたことだ。このときに録音したテープを持っている。いずれCDに入れて若い人達にも聞かせたいと思っている。
★田中清元氏のことで忘れられないのは、児玉誉士夫先生の直系の民族派団体、青年思想研究会の高橋正義先生のご自宅を野村先生と訪ねた折に、書生として学んでいたのが田中氏だった。田中氏は拓殖大学の民族派学生の中では有名で、数々の武勇伝がある。様々な運動を一緒に戦ったが、若い頃のお互いのイメージは紺の出動服にヘルメット。
「経団連事件」の裁判の時には、当初、裁判の傍聴が先着順であったにも関わらず、私達が着いた時には、人が多くて、とても傍聴できる状態ではなかった。頭に来た私は、隊員と一緒になって裁判所に文句を言って、抽選に変更させてしまった。岐阜から来ていた花房先輩や田中氏は、この私の行為によって抽選漏れし、傍聴ができなかった。出動服姿で暴れまわる私の姿が、よほど印象的だったのだろう、三十年以上が過ぎた今でも、時折、この時の行為を非難される。
平成四年の参議院選挙「風の会」の時には、立候補して頂き、北海道の選挙責任者として活躍して頂いた。
札幌で集会を行うのは、田中、前田の両氏と会う口実でもあるかもしれない。「群青の集い」でも大変お世話になりました。あらためて御礼を申し上げます。
(蜷川記)
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2008/9/25

燃えよ祖国 平成20年8、9合併号 通巻166号  

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 折々雑感

★巻頭の原稿は、昭和五十一年より全国各地で開催された「新しい日本を創る青年集会」での先生の講演である。確かは初稿は一水会の機関紙「レコンキスタ」。その後、昭和五十二年に先生が「経団連事件」にて公判を待つ間に小早川久之、鈴木邦男両氏のご尽力により、野村先生の初の単行本「友よ山河を亡ぼすなかれ」が刊行され、その中に収録された。先輩の犬塚哲爾さんが野村先生のことを語るとき、必ずと言って良いほど「記憶喪失の日本」を引用する。昨年の十一月に札幌で開催された「北海道青年フォーラム」でも、その話をされた。日本人に「正しい意味での過去」が語られるのはいつのことだろうか。
★「忘れ得ぬ人々」は、野村先生のご尊父のことに触れて書いてみた。ご尊父のお墓のある場所は、京急の黄金町駅から徒歩五分ばかりのところにある。文中にもあるように、私が子供の頃の遊び場所だった。そのすぐ近くに、「きんしょうかん」と呼んでいた池があって、赤門で遊ぶのに飽きるとザリガニ取りなどをした。後年、その「きんしょうかん」が料亭で、戦災で焼けたままになっていたことを本で読んだ。残念ながら、どんな字を書くのか失念してしまったが、いずれ調べてみたいと思っている。写真を撮るために、過日、久し振りにお寺に行ってみたが、街並に多少の変化はあるものの、母の使いでよく行った「一二三(ひふみ)」のパン屋や、焼きそばに使う「むし麺」を買いに行った製麺屋などは現在も営業を続けていた。また赤門の目の前の角に、駄菓子屋があって、そこで蝉をとる「トリモチ」を買ったり、ところてんを食べながらテレビでスーパーマンを見たことなども思い出した。
★西区史によれば、「『赤門』といえば東京大学、と相場が決まっているようだが、どっこいヨコハマにもれっきとした赤門がある。江戸のほうは将軍家斉の娘、溶姫が加賀藩前田家に嫁いだ文政十(一八二七)年建造のものだが、こちら光明山東福寺は後嵯峨天皇の勅願で元心法師が寛元年間(一二四三〜七)に創建したと伝えられる。天正十九(一五九一)年には徳川家康公より寺領を賜り、その折、葵の御紋の使用を許されたという名刹である。往時の山門は二階の豪壮なものだったが、創建以来戦災を含めて七度焼尽され、現在のものは昭和三十五年に再建された。御本尊は九十センチの観世音菩薩」とある。    (蜷川記)
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2008/7/25

燃えよ祖国 平成20年7月号 通巻165号  

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 折々雑感

★嗚呼!師走に入ったのに七月号で「群青忌」特集号である。ため息が出るのは私ではなく、読者の方達ですね。毎月、皆さんにはただ平身低頭です。
★五年ぶりの群青忌を終えた時、同志諸兄から、「なぜ毎年開催しないのですか」ということを言われた。しかし、過去十年間行ってきて、どうしてもマンネリ化の感が否めなかったし、加えて経費の捻出も頭の痛いことであった。それでも毎年、菩提寺である伊勢原の浄発願寺における法要や門下生を中心として集会は行ってきた。次の、平成二十五年の二十年祭は、また新しい人たちが新たなる構成で感動的な追悼祭を開催してくれるにちがいあるまい。もちろん、来年の十七回忌はもとより命ある限り、亡き師の菩提を弔って行きたいと思っている。
★追悼の挨拶を寄せているマニラ在住のヒロ山口(山口康裕)氏は、野村先生の盟友であり、石川重弘さん救出では重要な役割を担った人だ。野村先生の死後、私達もマニラを訪れることがなくなり、今回、群青忌で使用するビデオ撮影の為に十七年ぶりにマニラを訪問し、ヒロ山口氏と再会を果たした。
今年の群青忌にご夫妻で参加していただくつもりでスケジュール調整をした。しかし、来日直前に、山口氏の持病の肝臓が悪化し、急遽入院となってしまった。落胆したのは、私達よりも山口さんの方であったに違いあるまい。後日、ご挨拶する予定だったスピーチ原稿が届き、このように誌上でのご挨拶となった。再び門下生と共に、山口氏にお会いできることを楽しみにしている。
★季節はずれの話題で恐縮だが、暮れになると忌中葉書が届く。その中で、国民新聞を発行している山田惠久さんからの葉書が胸を打った。
長年連れ添った奥様が今年の二月に亡くなったそうだ。様々な会合で山田さんと何度もお会いするが、どちらかと言えば、ひょうきんで、いつも周りを明るくさせてくれる性格の人、という印象が強い。つい先日も、「日本を糺す会」の宴席でご一緒したが、そんなそぶりを私達には、決して見せなかった。
山田さんからの、忌中の葉書には、奥様を偲ぶ歌が、五首あり、その中で、一番感動したのが、
茶を一杯しばしば言えど返事なく
  遺影の妻はほほゑむばかり
神ほとけ頼らぬわれや亡き妻には
  香をささげて迷ひを語る
という二首。
説明は不要だろう。山田さんの寂しさと、奥さんへの愛情が伝わってきて、思わずホロリとした(蜷川記)
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2008/5/25

燃えよ祖国 平成20年5、6合併号 通巻164号  

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 折々雑感

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