不如帰  日記
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「唐津くんち」の鯛

義母の逝去(6月4日)

広島の義母が亡くなられた。享年93才、半年間の闘病であったが、最期は眠るように天寿を全うされたという。写真は義母が得意だった絵手紙の一つ。よほど唐津くんちが印象深かったらしく、くんちを見た10年後くらいの98年11月に、娘たちがいただいたもの。文面には「このはがきを揺らしてください。大勢の見物人と勇ましい男衆の歓声が聞こえてきますよ。もう一度行ってみたいお祭りです」と書いたある。しかし、残念ながら、その後、二度とみられることはなかった。東京深川生まれの義母はお祭りが大好き。「男衆の法被姿が、東京の祭りとそっくり」というのが、この祭りを初めて見られた義母の言葉であった。


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義母は深川で生まれて、戦後結婚されるまで、清澄庭園近くに住まれた。その後義父の仕事の関係で、大阪を経て約70年を広島で過ごされた。言葉の通じない、見ず知らずの土地での苦労はいかばかりだったかと思う。「東京に帰りたい」と果たせぬ愚痴を、いつも義父に漏らされたという。
しかし、広島で二女を授かり、孫5人、ひ孫2人を得て、ささやかながらもれっきとした家系を作られた。言葉使いもすっかり広島弁に。葉書には「いつもながらの仲見世ですが、子供の頃からの思い出のところです。そのまま」と記されている。深川付近の風景はいつまでも頭に残っておられるようだった。

写真もいいけど、絵手紙も良い記念になるなーと思う。義母の棺には多くさんの絵手紙を入れたが、我が家に残った義母の絵手紙はいつまでも大切にしたいと思う。(6月16日記)
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鯉太郎の休日  日記
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後ろ姿もかわいい

「来てうれし、帰って寂し、うちの孫」

連休中、子供を夫の実家に預けて、夫婦で海外に行っていた娘が、「孫見せ」を名目に休養に帰ってきた。ハイハイが上手になって行動範囲が広がった鯉太郎の為に、危険地帯との「壁(柵)」を作ったり、テーブルの角にプロテクターを張ったりと、準備したおかげで、無事五日間の滞在中けがもなく過ごしていった。とにかく動くものが好きで、回転台のテレビを動かしたり、引き出しの取っ手を触ったりと、遊びの天才である。板張りのフローリングに転んで頭を打っても、すぐに泣き止む。つかまり立ちした台をつかみ損ねて尻もちついて、一瞬の恐怖に泣くこともあるが、再び、果敢に挑戦する。次回の来宅が今から楽しみである。     (5月27日記)



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2017/5/17

鯉太郎の歯  日記
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10日間の試練に耐えさらに成長

日時:5月17日

昨日、3年ぶりの大腸内視鏡検査を受ける。お陰で、モニターによる実況中継では、素人の私が見ても異状なく、腸壁はきれいなものであった。2か所小さなポリープがあり、精密検査の為、はさみでカット、2週後の結果待ちとなった。最近、囲碁仲間の先輩が大腸がん手術の為、入院された。本人の弁によると、4年前、3年後の再検査を指示されたにも拘らず放っておくこと1年、調子が悪いので、見てもらったら、手術を避けられない状況になった由。そんな話を聞いていたので、病院からの通知に直ちに応じた次第。
今回は腸内洗浄液の量も1.8リットル(前回は2リットル)と少なく、レモン味で飲みやすかったので検査はスムーズであった。ただ、この日の受検者は5人と多く、時間が思ったよりかかった。それに、私以外は皆女性それも、老若とりまぜて、ということで、大腸がんイクウォール男性という私の思い込みが変わった。尤もたまたまそんな日廻りだったかも。市が補助する胃の癌検査が70才以上は無料になるというので、調子は良いが、誕生日を過ぎたら受けてみようと思う。

「鯉太郎」は日々成長。写真のように、前歯も生え、ストローで麦茶も飲めるようになったという。来週、久しぶりに来てくれるが、食べてもらうべく植えたイチゴは、タイミング悪く、第一次収穫は終わってしまった。「ハイハイ」ができるようになり、目が離せなくなった孫と付き合う方法に悩んでしまう。そういえば遠い昔、動けなくなった爺様が足にひもを結んで、孫とつながっていた光景をおぼろげながら思い出した。孫は4歳下の弟だったか、その下の妹だったか・・・?
動けなくなった老人のささやかな仕事だったのだろう。   (5月17日記)
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2017/5/5

GW雑感  日記
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「スバエク・トム」(カンボジアフェスティバル)

連休は多方面に行動。4/28〜5/1 は広島の義母のお見舞い。5/3は長女夫婦が来訪、一泊して帰った。5/4 は娘たちを置いて、代々木で開催中のカンボジアフェスティバルに行ってきた。5/5はお隣さんとお茶会。5/6は中学校の同窓会の予定である。
カンボジアフェスティバルは一昨年に続いて、2度目の訪問。前回に比べ、出店数も客数もずいぶん増えたような気がした。会場は観光宣伝が主目的なのだが、多くの在日カンボジア人の交流の場と言ったところ。民族音楽に乗って踊りだす人たち。「久闊を叙す」風の挨拶。郷土料理を楽しむ人々も見受けられた。写真の影絵は「牛革」で作られたもので、アンコールワットのあるシェムリアップから、わざわざ持ってきたという。昨年、当地に行って入手した、「菩提樹」をかたどった革細工と同じ手法で作られているそうで、親しみを感じることができた。勿論、大きさも、色合いも格段の差ではあるが。お目当てのアンコールビールもたくさん仕入れられているようで、一昨年のような、「売り切れ」には遭遇しなかった。この夏、4度目の訪問予定であるが。益々親しみを感じるカンボジアである。               (5月5日記)
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カンボジア北部の少数民族の踊り
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2017/4/14

カープ10連勝  日記
巨人にも三連勝。三試合ともそれぞれ含蓄のある試合内容であったが、やはり菅野が投げた第一戦の勝利が大きかった。昨秋のブログにも書いたが、広島はすっかり菅野に負けない自信を持ったようだ。エース対決(野村VS菅野)となったが、6回菅野を引きずり下ろした後は、完全にカープペースとなった。昨日の第三戦は流れとしては、ジャイアンツのものであったが、大瀬良が粘り強く投げ、試合を壊さなかったのが最終回の逆転につながった。昨日もそうであったが、菊地の美技に投手が何度も救われるのを見ると、WBC での活躍が伊達ではなかった思う。投手では、黒田が抜けた後、今年、加藤、床田の新人が活躍してくれいるが、昨夜、解説の山本元監督が言ったように「大瀬良に負がつかなくて本当に良かった」。故障で昨年までリリーフ業に甘んじていた大瀬良にとって、先発した、中日戦といい、昨夜といい、きっと大きな自信になったことだろう。ジョンソンや中崎が故障で抜けた後も、先発で久里、リリーフでは今村、薮田などが頑張っているのも心強い。「鯉のぼり」が上がるころまでこのまま連勝を続けて、最終的には昨年のゲーム差17.5を超えて、史上最大のゲーム差23優勝(セリーグ1990年に巨人が22差で優勝。2位広島)をと願うのは、まんざら夢でもなさそうだ。それにしても、ラジオでさえもカープ戦の実況中継が少ないのはどうしたことだ(怒)  (4月14日記)
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2017/4/5

ハイハイ  日記
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「這えば立て、立てば歩めの」親御心・・・爺だって!!

誕生から7カ月、「鯉太郎」は確実に成長している。歯が生えてきて、手作り離乳食には目がないとか。そして、この写真。人は常に成長を目指すものなんだと、つくづく実感する。娘が送ってくれる動画に夫婦でPC画面に釘付けさせられる今日この頃である。(4月5日記)
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2017/4/5

WBC  日記
ワールド・ベースボール・クラッシク
日本準決勝進出

この1週間は久しぶりに野球中継を堪能している。12日(日)の対オランダ戦では勝利インタビューまでテレビを見てしまい、翌日のゴルフ会にも拘わらず夜更かしをしてしまった。就寝1時起床5時半お陰でゴルフは・・・。言い訳はやめよう。準決勝進出をかけたここ3試合は、昨日の対イスラエル戦を除いて、痺れっぱなし。中でも我がカープの選手たちの活躍には、胸を躍らされ、胸を張らされる。菊地、鈴木、田中の3選手をWBCに送り出しているが、菊地の地味な活躍には、否、守りでは中心的な働きをしているので、「派手な」活躍には本当に誇りに思う。セカンドの守りが、どれだけ投手を救ったことか。筒香が「打」のMVP とすれば、菊地は間違いなく、「守」のMVPである。投手は千賀あるいは抑えの牧田か。
さて、WBCであるが、あとの記録として、出場国と今までの決勝に向けての勝利者を書いておきたい。(自分の頭の整理のため)

プールA:韓国、台湾、オランダ、イスラエル(弱いチームの集まりと酷評されている)
プールB:日本、キューバ、中国、オーストラリア(キューバの代わりにイタリアでも?)
プールC:USA、ドミニカ、カナダ、コロンビア(米州大会?)
プールD:メキシコ、プエルトリコ、ベネズエラ、イタリア(ラテン組)  以上16チーム

このうち各プールの2位までが、準決勝進出を争うが、結果は次の通りとなった。

Eプール(A+B):イスラエル、オランダ、日本、キューバ
Fプール(C+D):ドミニカ、USA、プエリトリコ、ベネズエラ

中間結果であるが Eの一位は日本、二位はオランダ Fはプエルトリコがドミニカに勝ったところ。小久保監督は準決勝こそ最大の「山場」と言う。今回の日本のチームは前評判ではこれまでの「最弱」と評され、大谷などのスター選手や大リーグ組が出れなかったため、ファンの盛り上がりも「日光の手前(今市)」であった。しかし、いざ試合が始まると、連日、テレビの視聴率のトップを飾り、またその内容もそれにこたえるような素晴らしいものだった。期待の準決勝は幸い、時差の関係から、日本では昼間の試合になるので、「寝不足状態」は起こらない。相手はFプールの2位であるが、いずれも強敵には違いない。がんばれ、ニッポン。 (3月16日)
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2017/3/16

早6カ月  日記
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「ハイハイ」の準備中

3月10日
「鯉太郎」誕生から早半年が過ぎました。先々週我が家に来たときは、簡単に寝返りを打ち、腹ばいになって「スフィンクス」状態から、欲しいものに向かって進もうとしていましたが、成就せず。そろそろ歯が生えそうで、歯茎が痒いのか、唾をいっぱい出していました。離乳食を覚えると、ミルクなんかよりそちらがずうといいみたいでした。今週妻が尋ねたら、写真のような状況でした。意味不明の言葉を沢山かけてくれたそうで、なんというか、お猿さんから確実に人間の子供に成長中と言ったところ。「ハイハイ」しだすと目が離せなくなりますが、それもまた楽しみになりそうです。
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2017/3/10

時の過行くままに  日記
2月10日

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「ギザ10」

何かと行事の多かった2017年の1月も、また、あっという間に過ぎて行った。今年の正月もおみくじを引くのをやめたので、運勢を予想することは難しいが、新年早々、偶然にもこの「ギザ10」(周辺にギザギザのついた10円硬貨)を見つけたので、ささやかな幸運がめぐってくるのではと期待している。ところで、正月におみくじを引くのをやめるようになったのは、10年ほど前、当地の笠森観音で三回続けて「大凶」を引いた時からである。その年は、確か、株が暴落した記憶がある。幸い、病気とか怪我がなかったのは不幸中の幸いであったが、それ以来、おみくじはパスすることにして、自分の六感を頼りに生きていくことにしている。毎年新年にわざわざ大阪まで出かけて参っているという住吉神社で、長女が今年、奇しくも凶を3回続けて引いたとの話を聞き、今のトランプ・クライシスもあり、持ち株の一部を売りに出した。ひと月を経た現在、その行動はいまのところ失敗であったが、わずかな資産を安全な現金にして、様子を見ることにしている。長女には何か「良い異変」が来ることを祈っている。

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セントバレンタインデイのチョコを娘たちからもらった。写真は次女からの彼女が好きな「星の王子様」。「チョコを食べたら、入れ物は返してね」とPetit Prince への執着は留まるところを知らない。最近は女性からの贈り物など「からっきし」ないが、残るもう一人の女性からのプレゼントも密かに期待している。「忘れてなんかいないよね」
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2017/1/4

謹賀新年  日記
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根津神社の初もうで

今年の三が日もあっという間に過ぎて行った。昨年は新婚の次女夫婦が旅行の帰りに立ち寄ってくれて、それなりに賑わったが、今年は全くの夫婦二人。というわけで、奥さんはじっとはしていない。いろいろ外出の提案を繰り広げられ、以下のような小旅行となった。

元旦(晴れ)
おゆみ野の神社仏閣ツアー。徒歩約2時間の散歩で、金城寺(日蓮宗)、長徳寺(真言宗)、白幡神社にお参りした。それぞれその歴史は古く、金城寺は15世紀の建立という。白幡神社はちょっとした高台にあり、さしずめ津波の避難場所になったことだろう。
2日(晴れ)
上野の国立博物館に行く妻と一緒に家を出て、私の方はいわゆる「谷根千」地区を散策することにした。ルートはJR日暮里駅で降りて、谷中銀座を見て千代田線千駄木を超え、夏目漱石がかつて住んだという「猫の家」の標識を確認。森鴎外命名と言われる「S字坂」を下って、根津神社に行き、「言問い通り」を伝って上野・寛永寺に至った。寛永寺のお参りを済ませて、国立博物館の正門に到着したのが1時過ぎ、そこで妻に電話したら、寛永寺に向かっているという。仕方なく、私も寛永寺に引き返して、無事出会うことができた。JR鶯谷のドトールコーヒーで妻の遅い昼食に付き合って、京成上野駅から帰途に就いた。その間約4時間の小旅行であった。
今、朝日新聞で漱石の「猫」を連載しているが、面白くて翌日の朝刊が待ち遠しいような状態である。その中に出てくる、苦沙弥先生(漱石)を悩ませる学生の野球ボールが、日本医科大生のものだっただろうと、空想させる。東大野球部の球場も近くにあるが、少し離れているので、すぐそばの日本医科大生の方が、漱石邸侵入者にはふさわしいか?明治時代の光景を思い浮かべての散歩も楽しいものであった。
寛永寺は予想よりはるかに小さかった。幕末の上野彰義隊戦争で焼失して、明治になって、川越の喜多院から根本中道を移したのが、今の寛永寺本堂であるが、かつての寛永寺は今の上野公園全体に広がる広大な境内を持っていた。戦争の敗者にはわずかな土地しか残らなかったことになる。お陰で立派な諸施設ができたが、戦争に負けたら「すべてがパーになる」ことを物語っている。祭壇には天皇陛下名のお歳暮とおぼしき、金一封が飾ってあって、一層ものの哀れを感じたのは私一人だっただろうか・・・。               (1月3日記)

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「やなか」の天ぷらそば
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