充実の3カ月  日記
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夕闇迫るハウステンポス(9月28日)

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福島・霊山(10月26日)

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長崎本線・七浦駅付近からの雲仙(11月9日)

次女が出産のため帰省した8月初めから、孫が帰った11月上旬までの3か月間は我が家にとっては忙しくも、充実した月日であった。

8月初め次女は、出産のために帰省。産院はわがまちでも有名な病院である。その名前を知人に出すと、「うちも」「うちも」という言葉が返ってきた。我が家の一階の和室が、妊婦と産まれてくる孫のための部屋となる。
大きなおなかをした娘は、出産の準備に忙しく、産まれてくる男子の衣類や家具の買い出しに、毎日付き合わされた。そんな中、9日、里山ボランティアの「ソーメン流し」に参加した。すっかり月イチの出席になってしまっているこのボランティアには、何とか籍を残したいので、必死である。

9月にはいっての出産の様子はすでに書いたとおりであるが、月末には中学校の同期会のために帰省。3泊四日でゴルフと同窓会、ハウステンボス観光、福岡観光と忙しく遊んできた。

10月には広島の義母を見舞ったほか、月末には福島県の霊山に登り、帰りには飯坂温泉に一泊した。ゴルフの明遊会は9月に引き続き雨のため中止。今年5回目の中止には幹事のわが身も責任を感じ、「お祓い」でもしなければという思いに駆られる。(11月は久しぶりに開催できた)

11月は学生時代の下宿仲間とのゴルフに、長崎まで出かけた。一日目は大雨、しかも、海沿いのコースゆえ、ボールを10個ほど失くした。二日目は大村湾カンツリー、天気も回復し、懐かしいコースを懐かしいメンバーと回って楽しい一日であった。今回は佐賀から久しぶりに長崎本線を使って長崎入りしたが、すれ違いの為、鈍行並みに遅い特急かもめが、有明海に沿って走る風情に感動した。有明海越しの雲仙は、本当に素晴らしかった。近いうちに長崎新幹線ができるそうだが、今の線はぜひ残してもらいたいものである。    (11月23日記)

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2016/11/23

鯉太郎去る  日記
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昨日、約2カ月滞在した初孫の”鯉太郎”が品川の家に帰っていった。一階の和室を片付け、我が家は再び夫婦二人の「EMPTY NEST」に戻った。朝起きたらいつも声をかけていた相手がいなくなることは寂しいものである。
この二月間、鯉太郎は目覚ましい成長を遂げた。体重が3Kgから7Kgになったことも驚異的であったが、言葉をかけると反応する様は、まさに、知恵が発達しているなーと実感させられた。勿論、対話にはならないが、話し相手にも充分であった。
逗留最後の日になった18日は天気も良くなり、近くの公園に乳母車で散歩して、しばしのお別れを惜しんだ。乳母車に不慣れな「新米じいちゃん」の姿は、はた目から見れば、さぞ、危なしかったことだろう。近所の知り合いのおばさま方にもらった、「お世辞」も素直にうれしく思った。
「また、遊びに来たら、いっぱいお散歩しようね」      (11月20日記)
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2016/10/17

龍蔵院  日記
広島は燃えていた

日時:10月8日〜11日

半年ぶりの広島。第一目的は高齢の義母の見舞い。すっかり弱ってしまった義母は老人ホームから病院に転院され、人生最後の日々を戦っておられた。
第二目的は、ザンスカールで知った広島にあるチベット仏教(ゴマン学堂)の寺、真言宗「龍蔵院」を訪ねることであった。そして、クライマックスシリーズを控えた、広島の街の空気を吸うことも。
「龍蔵院」は広島市街の北部、牛田早稲田の山裾の山稜にへばりつくように立っていた。40年前広島支店勤務の際、牛田早稲田にある独身寮に2年ほど住んだが、そのころの牛田地区は麓は住宅街であったが、山が迫り、わずかに段々畑が広がっていた。それが、山稜に多くの高層マンションが立ち並び大きな住宅街となっていた。
市の中心の紙屋町を発したバスは、以前は牛田旭と牛田東の二つの終点を目指していたが、現在は、牛田旭でUターンして、牛田東、広島女学院前を経由して牛田早稲田の終点まで走っている。牛田東2丁目でバスを降り、住宅街の間の狭い入口から急坂を登ること約10分、チベット仏教の「タルチョ」がはためく木々の間に、龍蔵院を発見した。
境内を見ていると、寺から女性が出てこられ、訪問の経緯を話すと、中に招き入れて下さった。そこには、チベットからインドに亡命し、チベット仏教を広めるために来日されている、一人の僧が居られた。お茶を飲みながら、ザンスカール・「ストンデ寺院」で会ったTさんのことをお話ししたら、かつて広島で一緒に過ごしたこと、実はTさんはストンデ寺院の管長さんであることを教えて下さった。Tさんの来日予定を聞いたところ、ストンデの管長職を卒業されれば、来日も可能であろうとの話しであった。そして、来院の記念にと、ダマイ・ラマ法王が直々に御加持されたという赤い「スンドウ」(金剛線)のお守りを、わざわざ手首に巻いて下さった。
毛利元就公が広島に城を築くために、下見した場所に立つという、由緒ある「龍蔵院」ではあるが、あまりにも地味で、広島の人もあまりご存知ではないのではと思う。ましてや、チベット仏教を広める寺院であることなど。
もう二度と行くことはないであろう、遥かなるザンスカールの思い出を、再び強く思い出させてくれる小さな旅であった。            (10月17日記)

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広島のお土産はもみじ饅頭と「鯉太郎」にカープの星・丸外野手(千葉県出身)のTシャツ
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2016/10/17

初孫  日記
「鯉太郎誕生」
9月8日、夕食を済ませた娘が、「来たー」と宣告。私はいつもの通りビールで晩酌をしていましたので、妻が娘を産院まで運びました。私は、留守番。翌日午前1時半ころ、出産に備えて東京から駆けつけて、我が家に泊まっていた婿殿に、産院から呼び出しの電話があり、酔い醒めの眠い眼をこすりながら、婿殿を産院まで送りました。婿殿を残し、帰宅して寝ていると、午前6時半ころ、婿殿から無事出産の報告電話。出生時刻午前3時33分。体重3200グラムとのこと。すぐに、不眠不休の婿殿を産院に迎えに行きました。面会時間の午後三時に再び産院を訪ね、娘に抱かれた孫に対面。新生児室の窓越しでしたが、初孫の誕生を実感しました。
翌10日、わがカープ(鯉)は25年ぶりのセリーグ優勝。一緒にテレビを見ていた妻と優勝決定の瞬間、婿殿の前でハイタッチしました。(9月18日記)

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2016/9/10

鯉心(Carp 愛)  日記
25年ぶりのセリーグ優勝は射程圏内

昨夜の広島VS巨人のプロ野球中継には痺れた。0−4 の状況で6回から1点ずつを返し、9回に逆転、結局6-4でカープは勝利をもぎ取った。前日のマジック20点灯から、翌日には、M18 にするチームの力強さは、近年稀に見るものである。巨人との3連戦は、打撃陣の優劣から、広島が3連勝してもおかしくないような状況であったが、初戦一敗した後の翌日に堂々と逆転する様は、巨人を相手に、横綱相撲をしているようであった。セリーグ一の好投手、菅野を打ち砕いたのも、大きな意義があった。これで、菅野投手はこれからの広島戦には登板できないのではと思うくらい、敗戦の姿が痛々しかった。
思えば、カープとは長い「付き合い」である。付き合いといっては怒られるが、ファンになって40年にもなる。「あれから40年」の綾小路公磨ではないが、1975年(昭和50年)に、当時勤務していた広島の「流川」で史上初のセリーグ優勝の祝い酒を飲んだのが、運の尽き。その後も貧乏球団故に、安く選手を仕入れ、鍛えに鍛えて、球界を代表する選手に仕立ている姿をみて、このチームにぞっこん惚れてしまった。正直言って、最初は「将(妻)を射んために、カープ大好きの馬(義父)を射る」ため、俄かファンになったきらいもなきにしもあらずだったが。何せ、その前は、れっきとした「西鉄」ファンであったから。
父がカープファンだったことなど全く覚えていないという野球音痴の妻が、最近、勤め先の学童ルームの子どもと一緒に、カープを応援するようになったという。なんでも、その子(小3)とは、会えば、前夜の試合の結果と、当日の試合の先発投手を、語っているとか。その子は父親の影響でカープファンだそうだが、その父はかつて広島県呉市にいた時に、カープのとりことなり、息子を少年野球チームに入れて、自分もコーチをやっているそうである。カープファンのDNA が、妻も含め営々と引き継がれているわけである。(ちょっと大袈裟か)
今や鍛え抜かれたカープの選手の「面構え」を思い出してほしい。「切り込み隊長」の田中が、高校大学と一緒だった、巨人の菅野投手をホームランで打ち砕いた前節の試合は、「お坊ちゃま君」(2死からの不用意なホームランの被弾が多すぎ)と雑草の意義深い一戦であった。「菊丸コンビ」の2番3番の破壊力もすごい。強打者の定位置とすべき4番、5番は、新井・エルドレット・松山が交代で務め、休養の行き届いた3人はその都度成果を出している。6番以降の下位打線も、「神ってる」鈴木や安部が、「どこからでも点数が取れる」バッティングをしている。
投手陣もジョンソン・野村・「男・黒田」のほか、福井などの先発陣が安定し、中継ぎに、大瀬良・一岡・今村・ジャクソンなどが控え、完璧なセットアッパーの中崎につなぐ投手リレーは盤石のものがある。今回の対巨人3連戦でそれが証明された。
この「黄金」の選手たちを育て上げたのは、多くのコーチ陣、中でも、長く二軍で指導し選手との信頼関係を作った、現監督の緒方の功績が大と言えよう。一方、広島を離れ、なぜか巨人軍に選手やコーチとして再就職した、川口、江藤、大竹なども広島時代に鍛えられた体験を野球業の財産にしているように思える。
阪神の金本監督も思い出して欲しい。阪神から戻って2000本安打を達成し、中心バーターとして、頑張っている新井を見守ってほしい。彼らは、皆、カープ道場で育てられ「石」から「玉」になった選手たちである。
ともあれ、これからの秋の夜長は、酒を片手に、安心して、横綱・広島カープの戦いをテレビやラジオで堪能できそうで、今からワクワクしている。        (8月26日記)
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2016/7/22

遥かなるタオム村(カンボジア)  旅行
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バンデアイスレイの見事な彫刻


日時:7月15日(金)〜19日(火)
同行者:妻
行程:成田〜BKK〜シェムリアップ〜BKK〜成田
便:ANA、BKKAIR

1年半ぶりに訪れたシェムリアップ空港のターミナルビルは増設され、立派になっていた。特に国際線ターミナルビルが新しくなり、トイレなども快適。カンボジア政府の観光に対する力の入れ様が見て取れる。更に驚いたことに、ドル箱のアンコール遺跡群への入場券発売所が、以前よりずいぶん市街地よりの所に、ホテルかと思わせる建物となって移っていた。こちらも観光がカンボジアの生命線と言う政府の意図が見て取れた。市街地の道路も随分よくなったと感じた。
今回の旅の目的は、妻が2年間支援してきたウッチー君がこの7月に料理学校を卒業するというので、会って、お祝いすることと、新たにラタナさんという女学生を支援するためのお金を、仲介してくださったシェムリアップ教会の神父様に渡すことであった。ラタナさんの家はシェムリアップからバスで4時間も掛る、コンポントムという町にあり、とても会うことは叶わないと思っていたが、お母さんと二人で教会で待ってくれていて、神父様の前での感動の初対面となった。
ラタナさんは9月から2年間、ウッチー君と同じ、クナトマイの寄宿舎に入って、フランスのNGOが支援してできた、ウッチー君と同じ学校に通うことに決まっている。19歳の目の輝きが素敵な良い娘さんであった。
今度の旅は、我々としては初めての個人旅行で、これが実現できたのは、シェムリアップに在住のKIOさんのお蔭であった。
KIOさんはホテル(一泊40ドル/室)の予約、日本語の話せるガイド(ブンタオン君)とタクシーなどの手配をしてくれ、加えて、シェムリアップ在住の日本人との会食もセットしてくれた。
我々は、ただ、往復航空券(ANA 一人当たり 10万円)の手配のみで旅立つことができた。因みに、今回の旅の総費用は、夫婦合わせて、お土産代を含め、約28万円であった。飛行機代を除いたら、たったの8万円。物価が日本の1/5(KIOさん)のカンボジアとはいえ、何という安さ。ホテルはセミダブルのツイン、バスタブつき、プール付で日本で言えば中級以上。多くの西洋人が泊まっていた。これでは、カンボジア旅行が病みつきになりそうである。
KIOさんは2年間の勤務を終えて、8月初めに日本に帰国されるという。「帰ったら何されますか?」と問うたら、実家の松山に住まれるお母様に会いに行くとのこと。会社への帰国報告などいろいろ忙しそうだが、上京されたら、是非、再会してお礼の言葉を述べたいと思う。
                 (7月22日記)
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2016/7/22

遥かなるタオム村(その2)  旅行
遥かなるタオム村〜人々との出会いそして、新しい出発

シェムリアップの観光は妻の希望する、「東洋のモナリザ」のある、バンティアイスレイ寺院、私の「トンレサップ湖の水上生活者」とアンコール・トム、共通目的の、ウッチー君の実家のあるタオム村、そして、アンコール遺跡の200年前に栄えた、「ロリュオス遺跡」の訪問だった。
目的地のいつかは、二度目の所もあったが、いずれも、時間をゆっくり使った、充実した旅になった。ただ、ブログでは書き尽くせないので、そのうち、初めて行った「タオム村」と「トンレサップ湖」について、書きたい。

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{ノートダム・ド・タオム」
「タオム村」
ウッチー君家族の住むこの村は、プリア・ネット・プリアの一画、シェムリアップから西に、国道6号線(アジア街道)を途中で左に折れ、車で約1時間半、トンレサップ湖に注ぐ川の畔にあった。国道を外れると、道路はすぐ未舗装の「でこぼこ道」になり、広大な水田の中を、トヨタ車はガタガタ揺れながら走った。
村には100年以上も前に作られた古い教会が建っていて、教会を管理してるおばさんが親しく迎えてくれた。教会の壁には内戦の傷跡(弾痕)が残り、横から見て初めて気づいたのだが、屋根はトタンぶき。それでも正面から見る、フランス風のデザインで、正に「ノートルダム・ド・タオム」であった。
ウッチー君の家は、教会のすぐそば、川が近くを流れ、子どもたちが、岸辺の木から、川に飛び込んで泳いでいた。ウッチー君はお父さんが健在のころ、前の川からボートでトンレサップ湖まで行ったという。家ではお母さんが孫と二人で待っていてくれた。妻と同じ62歳とのことだが、苦労が多かったのだろう、ずいぶん老けておられた。前の家はポルポトが攻めてきて、一家で逃げ出したところ、放火されて消失。内戦の後、お父さんが再建した。今の家には焼け残った焦げた柱が、床材として使われていた。家族は3人の兄、2人の姉、弟とお母さんの8人だが、兄は皆、タイに出稼ぎに、姉は嫁に行き、弟はバッタンバンの大学に行っているとかで、お母さんは孫と二人暮らしとのことであった。お母さんからは何度も支援のお礼を言われ、カンボジア語でもお気持ちが十分に伝わってきた。
タオム村は、ポルポトが最後まで支配した地区と言うことで、山の中の村とのイメージであったが、水田の広がる大平野のど真ん中で、少し驚いた。
タオム村には日本からも毎年多くの学生が訪れると言う。田舎の古い教会ではあるが、内戦の破壊から立ち直った教会は、多くのの信者を引きつける何かがあるのだろう。

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チョンクニアス教会
「トンレサップ湖」
昨年の旅では、すぐ近くまで行ったこの湖であったが、時間の都合でパスしたこともあり、何としてでも行きたかった。カンボジアを語るとき、この湖を抜きには語れない。琵琶湖の約5倍、雨季にはその3倍以上にも広がるという。その主な水源がメコン川。今、乾季が終わったばかりで、水面は低かったが、雨季の終わる11月ころには、水面が10M近くも上がるとガイドは説明した。現在は淡水魚の宝庫であるこの湖は、将来、カンボジアの水田の灌漑用水ととなって、世界の食糧不足を補ってくれることだろう。
今回訪れた水上生活者の家は、船の乗り場のある、プノン・クロムの街に近い、川の所に集中していて、湖に続く水路を多くの観光船やボートが、エンジン音もうるさく行き交っていた。水路には水上教会「チョンクニアス」があって、KIO さんの紹介で、神父様を始め、授業中の子どもたちに会うことができた。ボートは我々二人の貸し切り。水路を出て、湖に浮かぶ観光施設で「ワニの動物園」を見ながら展望台に上がると、正に「大海原」ならぬ「大湖原」。対岸の岸辺など全く見えない。ここからボートを出して、沖合でバッタンバンを発してプノンペンに向かう大型船に乗り移るという。なんとも壮大な船旅である。

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水上生活者の家とトンレサップ湖

水上生活の人々は、ちょうど午睡の時間であった。絶えず揺れ動く、浮家の中に、ハンモックをつるし寝ていた。家とハンモックの揺れで、揺れが二重になって、気持ち悪くなるのではとつい心配してしまう。中には、小さな子供たちが、家から上手に船に飛び乗る光景も見られた。
お店も小学校も、ガソリンスタンドもすべて水の上。暑い陸に住むより、皆さん快適なのかもしれない。 


「ポール・ドウブレー(Poul Dubrule)料理・ツーリズム専門学校
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シェムリアップの郊外、空港に行く途中に、この学校はあった。日曜日で学校は閉まっていたが、ウッチー君が門番と交渉してくれ、学校の中を、見せてもらえた。外観だけであったが、池の上の講堂といい、食堂の配膳台やテーブルといい、流石はフランス人が作ったといえる、素晴らしい施設であった。
ウッチー君はここで学んだことが自信になったのだろう、1年半前に会った時よりずいぶん大人びて、英会話も上手になっていた。ガイドのブンタオン君も3か月であったが、この学校で、ツーリズム(ガイド)の勉強をしたという。ウッチー君は卒業をして、これから、本格的な就職活動となるが、レストランより、ホテル勤務を希望しており、求人が学校に来るのを待っている。タオム村からの帰りに、女の同級生から、就職内定の知らせが入っていたが、ウッチー君にも早い就職決定の知らせが届けばと祈らずにはいられない。
ガイドのブンタオン君も将来、旅行会社を自分で持ちたいと夢を語ってくれた。ガイドになるための授業料を稼ぐため、トクトクの運転手も短かったがしたという話であった。人に好かれる性格なので、きっと夢をかなえることだろう。今度会ったカンボジアの若者は皆、「上の生活」を目指して頑張っていた。新しい奨学生のラタナさんもしっかり勉強して、良い就職口に着けるよう頑張って欲しい。そして、貧困や病気で苦しんでいる家族を助けてやってと願わずにはいられない。       (7月22日記)
       
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2016/7/2

白内障手術  日記
日時:6月30日(木) 8:30〜8:45
場所:忍足眼科

昨年の左目・黄斑変性+白内障の手術に続き、今回は右目の白内障手術をした。もともと右目は左に比べ、近視が強く、加えて、飛蚊症に続き、「網膜裂孔」を発症。7〜8年前に川鉄病院(当時)でその手術(レーザーによる縫合)を行っており、おメメの劣等生。昨年のオペの際に、一緒にという話もあったが、右目の白内障は進行が遅いので後回しにし、左眼に遅れること一年で今回の手術となった。
今回も別室で妻がモニターをWATCH し、その様子を語ってくれた。それによると、黒目と白目の間にメスを入れて少し(見えないくらい)カット。我が分身の「水晶体」をその切り口からストローのようなもので吸い取り、袋に入ったジェリー状の物体(眼内レンズ)を同じ切り口からストローで注入して終り。切り口の縫合もなく、その間約10分の作業であったとのこと。
一方患者自身の感想(見えないので)は、椅子に横になって、座りの悪い頭を、ヘルメットのようなもので、左右から固定され、今回も一つ目小僧のような作業布を顔に被せられ、身動き禁止と、瞳孔の「一点注視」を命ぜられて、「まな板の鯉」。
麻酔は「テノン麻酔」とかで、どうも、液体をかけられるだけの部分麻酔の様で、少々痛い。手術が佳境に入ると音楽が流れ、先生だけでなく、患者をも鼓舞しているようで、「身構える」のにも、有効であった。「終わりましたよ」と言う先生の掛け声にも、緊張のあまり、ワンポイント遅れて返事をする。手術時間は妻が言うように短かったかもしれないが、部分麻酔のせいで、我が目に切り込まれるメスの感触が如実に感じられ、昨年のオペ時間(1時間10分)と同じくらい長く感じられた。
これにて、左右両眼のリニューアルは終わったので、あとは「緑内障」が生じないことを祈るのみ(今の所その予兆はない)である。  (7月2日記)
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2016/7/2

黒部渓谷と立山アルペンルートの旅  旅行
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立山・室堂付近

「憧れの黒部渓谷へ」
日時:6月18日(土) 天気:晴

最近、「黒部の太陽」をテレビで見た。石原裕次郎主演の映画で知ったことは、「黒四」のことにとどまらず、「黒三」などの黒部川流域の発電所建設の苦難の歴史であった。黒部川を思う時、それらの「人的」なことに加え、源流の「鷲羽岳」や「雲ノ平」「水晶岳」の北アルプス核心部の山々や、「下の廊下」にある「十字峡」や「S字峡」の渓谷に思いを馳せる。「下の廊下」は、もう絶対に訪れることのできない場所である。
黒部渓谷鉄道の終点「欅平」から更に約1時間で行く、「祖母(ばば)谷温泉」も、憧れの場所であった。後立山連峰・白馬岳から発する祖母谷と唐松岳から発する「祖父(じじ)谷」の合流点にその「祖母谷温泉小屋」がある。すぐそばにある地獄谷の源泉からお湯を引き、まさに「源泉かけ流し」の「秘湯」であった。宿主は野田市に住んでおられ、営業期間の6月から11月までの半年間だけ、山に入られるとのこと。今年もつい先週小屋を開いたばかりだった。

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夕闇迫る祖母谷温泉(川べりに露天風呂がある)

「残雪の立山・室堂」(雷鳥荘)

日時:6月19日(日)くもりのち雨

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雷鳥沢の残雪

宿の「雷鳥荘」に着くと、相部屋予約に反し3階の個室が用意されていた。聞くと韓国からの団体客が相部屋を予約しているとのことで、宿側が配慮して特別に部屋替えをしてくれていた。一風呂浴びて一服するころ、風雨の中、約40人ほどの団体が到着した。そして、いつもの喧騒。彼らが泊まる二階のフロアーは、我々が小学校の修学旅行でやったように、部屋間の「行ったり来たり」。大声が我々の部屋まで響いてくる。それでも、ホテルにとって登山客の少ないこの時期、団体はありがたいものだったろう。翌朝、早々に出掛けた彼らに雷鳥平で会ったが、一の越方面からの撤退の最中であった。ストックのないものが殆どで、ましてや、アイゼンなどつけている人はいなかった。日本を代表する山へのチャレンジは時期が早すぎたのだ。それでも、侵入禁止の柵を越えて、「マンセイ」と言って記念撮影をしていた。きっと、韓国にはない、このヤマの雄大さを十分堪能してくれたことだろう。

「立山貫通」
日時:6月20日(月) くもり時々薄日

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「黒部平」 雄山のドテッ腹にロープウエーの山上駅(大観峰)が「開口」する

今回の旅の目的の一つは、これまで通ったことのない室堂から黒四までのルートを踏むことであった。そして、それは、完全に機械化された観光でもあった。即ち、室堂からトロリーバスに乗って、立山三山の一つ「雄山」の頂上直下をくり貫いたトンネルをたった10分で「大観峰」に着き、大観峰からロープウェイに乗って7分で黒部平に着く旅程。そして、黒部平から5分で黒四のある黒部湖に着くケーブルカーの旅と、黒四から扇沢まで、再びトロリーバス16分の旅であった。その料金(室堂〜扇沢)は5860円。因みに、富山〜信濃大町のトータル料金は1万円超となる。正に観光のドル箱。そのルーティン化された観光コースを、大勢の人が訪れていた。どちらかと言えば、長野側からの客が断然多かったように見受けられた。そのほとんどが団体さん。されど、黒四を始め、多くの北アルプスの山並みなど、たくさんの見どころがあるこのコースは一生に一度くらいは行った方がいいと思う。
黒四の堰堤から「下の廊下」を覗き、40年も前に歩いた、「剣沢」〜ハシゴ谷乗越〜内蔵助平〜下の廊下のほんの一部〜黒四ダム の一人旅を思い出した。
「黒部の太陽」のクライマックスであったトンネルの破砕帯をバスはあっという間に過ぎ、暑い扇沢に着いたのは、お昼すぎであった。室堂が9:15発であったので、ゆっくり観光しながらもその間約3時間の観光旅行となった。    (6月22日記)


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2016/6/22

季節の変わり目に  登山
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  咲ききらずに落ちるプルメリア

もう五月も終りになる。先日、ボランティアで冨田の「泉の森」に出掛けたら、ホトトギスが鳴いていた。このところ、真夏のような晴天が続いていたが、今日は久しぶりの雨。お空にたっぷり水分がたまっていたとみえ、土砂降りの雨であった。昨日植えたアプローチの「日日草」も水分をもらって元気が出たことだろう。
冬の間、室内に置いていたプルメリアの鉢も、昨夜ベランダに出したので、この雨に潤ったことだろう。10年近く前にハワイで買ったこのプルメリアは、けなげにも毎年花を咲かせていたが、今年はどういうわけか、満開になる寸前で落花してしまった。なんとか記念にと、この花をカメラに収めたが、その数日後に再び落ちてしまった。これからは強い太陽の下、外の空気を吸うことができるようになったので、大輪を咲かせてくれるかもしれない。
古くからの山仲間の訃報が入った。仕事も遊びも精一杯頑張っていた彼だが、健康には無頓着だったように思う。煙草を吸い、大酒を飲み、親の面倒を見るため田舎に奥さんを伴って、しばらく移住していた。人生の終盤を気の向くままに過ごし、それはそれで楽しかったかもしれないが、あとに残された家族はどんなにか淋しいことだろう。
 「八方を スキーで滑った思い出を 熱くコメ(ント)した 友よ懐かし」
                         (5月27日記)
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