時の過行くままに  日記
2月10日

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「ギザ10」

何かと行事の多かった2017年の1月も、また、あっという間に過ぎて行った。今年の正月もおみくじを引くのをやめたので、運勢を予想することは難しいが、新年早々、偶然にもこの「ギザ10」(周辺にギザギザのついた10円硬貨)を見つけたので、ささやかな幸運がめぐってくるのではと期待している。ところで、正月におみくじを引くのをやめるようになったのは、10年ほど前、当地の笠森観音で三回続けて「大凶」を引いた時からである。その年は、確か、株が暴落した記憶がある。幸い、病気とか怪我がなかったのは不幸中の幸いであったが、それ以来、おみくじはパスすることにして、自分の六感を頼りに生きていくことにしている。毎年新年にわざわざ大阪まで出かけて参っているという住吉神社で、長女が今年、奇しくも凶を3回続けて引いたとの話を聞き、今のトランプ・クライシスもあり、持ち株の一部を売りに出した。ひと月を経た現在、その行動はいまのところ失敗であったが、わずかな資産を安全な現金にして、様子を見ることにしている。長女には何か「良い異変」が来ることを祈っている。

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セントバレンタインデイのチョコを娘たちからもらった。写真は次女からの彼女が好きな「星の王子様」。「チョコを食べたら、入れ物は返してね」とPetit Prince への執着は留まるところを知らない。最近は女性からの贈り物など「からっきし」ないが、残るもう一人の女性からのプレゼントも密かに期待している。「忘れてなんかいないよね」
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2017/1/4

謹賀新年  日記
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根津神社の初もうで

今年の三が日もあっという間に過ぎて行った。昨年は新婚の次女夫婦が旅行の帰りに立ち寄ってくれて、それなりに賑わったが、今年は全くの夫婦二人。というわけで、奥さんはじっとはしていない。いろいろ外出の提案を繰り広げられ、以下のような小旅行となった。

元旦(晴れ)
おゆみ野の神社仏閣ツアー。徒歩約2時間の散歩で、金城寺(日蓮宗)、長徳寺(真言宗)、白幡神社にお参りした。それぞれその歴史は古く、金城寺は15世紀の建立という。白幡神社はちょっとした高台にあり、さしずめ津波の避難場所になったことだろう。
2日(晴れ)
上野の国立博物館に行く妻と一緒に家を出て、私の方はいわゆる「谷根千」地区を散策することにした。ルートはJR日暮里駅で降りて、谷中銀座を見て千代田線千駄木を超え、夏目漱石がかつて住んだという「猫の家」の標識を確認。森鴎外命名と言われる「S字坂」を下って、根津神社に行き、「言問い通り」を伝って上野・寛永寺に至った。寛永寺のお参りを済ませて、国立博物館の正門に到着したのが1時過ぎ、そこで妻に電話したら、寛永寺に向かっているという。仕方なく、私も寛永寺に引き返して、無事出会うことができた。JR鶯谷のドトールコーヒーで妻の遅い昼食に付き合って、京成上野駅から帰途に就いた。その間約4時間の小旅行であった。
今、朝日新聞で漱石の「猫」を連載しているが、面白くて翌日の朝刊が待ち遠しいような状態である。その中に出てくる、苦沙弥先生(漱石)を悩ませる学生の野球ボールが、日本医科大生のものだっただろうと、空想させる。東大野球部の球場も近くにあるが、少し離れているので、すぐそばの日本医科大生の方が、漱石邸侵入者にはふさわしいか?明治時代の光景を思い浮かべての散歩も楽しいものであった。
寛永寺は予想よりはるかに小さかった。幕末の上野彰義隊戦争で焼失して、明治になって、川越の喜多院から根本中道を移したのが、今の寛永寺本堂であるが、かつての寛永寺は今の上野公園全体に広がる広大な境内を持っていた。戦争の敗者にはわずかな土地しか残らなかったことになる。お陰で立派な諸施設ができたが、戦争に負けたら「すべてがパーになる」ことを物語っている。祭壇には天皇陛下名のお歳暮とおぼしき、金一封が飾ってあって、一層ものの哀れを感じたのは私一人だっただろうか・・・。               (1月3日記)

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「やなか」の天ぷらそば
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2016/12/31

年末登山  登山
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福聚院(曹洞宗)の山門

日時:12月30日  晴れ
同行:妻

今年の登山の締めくくりに、はたまた、暇な年末の時間つぶしに、房総半島の南端にある富山に登った。最寄駅からJRを乗り継いで、登山口の内房線岩井駅まで約1時間半の電車旅であった。車外は寒い北風が吹いているが、天気は晴れ。東京湾越しに、真っ白な富士山が見えた。
岩井駅からは今や盛りの水仙を見ながら、県道を歩く。途中、写真の福聚院というお寺に立ち寄って、波の伊八が彫ったという彫刻(下画)を拝んだ。
館山道の橋脚を抜け、福満寺(真言宗)の脇から、富山の南峰に続く山道を登る。標高差約300M久しぶりの登山でいい加減足も痛くなるころ、やっと、南峰(342M)に到着した。
山頂には巨大な通信塔と、古びた社があったが、展望は全くなく、そそくさと、頂上の北峰に向かう。途中、伏姫籠穴から上がってきた道と合わせ、北峰(349M)に到着した。岩井駅から約2時間の行程であった。北峰の頂には、りっぱな展望台が作られていて、そこからは、対岸の三浦半島は勿論、大島などの伊豆七島や、伊豆半島が望めた。列車の中から見えていた富士山は雲隠れしていたが、遠く南アルプスの白い峰々を見ることができ、素晴らしい展望に感激しきり。陽だまりベンチで弁当を食べたあと、伏姫籠穴まで、それこそ、奈落の底に落ちるような下り道を歩いた。伏姫籠穴の入り口はコンクリート製の立派な建物で、30年ほど前に訪ねた時にはなかったもの。人形劇にもなった「南総里見八犬伝」にひかれて、多くの観光客が訪れるものと思われる。そういえば、皇太子夫妻が1999年2月に富山に登られ、その後、めでたく愛子様が誕生された(2001年12月)ということで、「愛の山」としても若い恋人たちに人気だ(観光宣伝用?)という。私は、今回の登山をきっかけに、地元千葉を舞台とした馬琴の大長編小説「八犬伝」に挑みたくなった。
                    (12月31日記)
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2016/12/28

年末雑報  日記
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日比谷公園の「クリスマス市」

1.安倍首相ハワイ真珠湾訪問

約20年前、初めて訪れたハワイ・オアフ島で、どうしても訪れたいと、嫌がる妻を伴って、真珠湾にあるアリゾナ記念館に行った。バスを乗り継いでいったそこは、ちょっとした公園と言った感じであった。だらだらと海に向かって降りて行った先に、戦艦アリゾナを覆うように、白い建物が建っていた。海底からは戦艦の廃油がぶくぶくと上がっており、まだ、戦艦が「恨み節」を発しているような気がした。記念館には修学旅行と思しき多くの高校生来ていた。そのうちの金髪の男子が私をにらみつけた。「ここはイエローモンキー(アジア人)が、来るところではない。もし、お前がジャップなら、海に叩き込むぞ。ここは、アメリカが太平洋戦争で負けた、唯一の戦場で、また、リベンジの戦意高揚の聖地だぞ」と言っているようだった。「お前は何人」と聞かれたら「朝鮮人」と言おうと心に決めていた。常に音楽が流れていたように、思っていたが、妻によれば「リメンバー、ハールハーバー」と繰り返していたとのこと。犯行現場に戻ったような、居心地の悪さを感じて、そそくさと退場した記憶が蘇る。
そのアリゾナ記念館を今回日本人の首相として初めて安倍さんが訪れた。謝罪ではなく、慰霊の為だという。「恩讐の彼方」、あの高校生は今どうしているだろうか?今回の大統領選でトランプを選んだ、プアーホワイトになっていなければ良いが。「一度裏切られたら、簡単には忘れられない。個人は勿論、国家間でさえ」と言われる。日本人が思うソ連(ロシア)然り、韓国人が思う「大日本帝国」然り。加害者は早く忘れたいと思うが、被害者は「そうは問屋が卸さない」と思う。建前の「きれいごと」を拒否する、ビジネスマンのトランプが取り仕切るアメリカ合衆国の今後の動きが気にかかる年末になった。


2.鯉太郎三カ月にして「立つ」
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足の平が大きく、足指も長い、脚もがっちりしているこの子はきっと190cmを超えて背が伸びるよと話していた鯉太郎が、「つかまり立ちした」との娘からのメール。「あんた(娘)も早く立てるようになったはいいが、そのため蟹股になったよ」と注意する妻。つかまり立ちは良いが、テレビ台の角で転んで顎を打たせるなと心配する、爺さん。離れて住んでも、日々の成長がリアルタイムで見れる便利な世の中になったものだと感心する今日この頃。

3.ウッチー(カンボジアの息子)が一流ホテルに就職

この夏、料理学校を卒業した息子の就職のことが気になっているものの、連絡の取り方が分からなかったが、Face Book に投稿しているのを見て、娘に教えてもらって思い切って連絡を取ってみたら、すぐに返事が来た。実は、同じFB で11月に就職先決定の連絡をくれていたのだった。
FB の個人連絡欄の使い方が分からなかった、老人は空しく時を過ごしていたわけである。
カンボジアにある世界的に有名なホテルのケーキ職人として、試用採用ではあるが、勤めているとのうれしい便りであった。
2年間奨学金を支援した妻は、「カンボジアの息子」と呼ぶ。フランス系の一流料理学校を卒業したのだから、良い就職口に恵まれるだろうと思っていたが、それにしても、素晴らしい就職口である。カンボジアに行くと、二流以下のホテルしか泊まったことのない我々は、いつかウッチーの勤めるホテルに一度は泊まってみたいと、今から夢を膨らませている。(平成28年12月28日記)
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2016/12/24

人見知り  日記
鯉太郎成長中
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ひと月ぶりに会った鯉太郎は、すっかりジジババを忘れていた。我が家にいた二カ月は何だったのかと、恨んでもそれは「しょうがない」こと。パパとママとの3人の家庭がしっかりと進んでいる証なのだと、諦めるより他はない。「これからジジババと理解してもらうにはどうしたらいいのか」という妻の問いには、「パパママがチャンと教えてくれるよ」と言った。
ひと月ぶりに抱く鯉太郎は、胸囲もがっちりし、足もしっかりしていた。首も座って抱っこは容易になったが、とにかく重い。不十分な態勢で抱きかかえため、ぎっくり腰になりそうだった。向かい合って見つめあっても、他人様への「良いお顔」の次には、「ベソかき」になる。こんな小さいころから、余所行きポーズをするのかと感心してしまう。そして、遠慮のない「泣き」。相手を見分ける能力は、これからの人生の術。体の成長だけでなく、心の成長の過程を見守るのも、年老いた爺には楽しみである。(12月24日記)
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2016/12/14

年賀状の断捨離  日記
今年も年賀状を出す季節になった。先日、思いもかけず、喪中挨拶のはがきが届いた。40年来年賀状のやり取りをしてきた同年の知人。仕事上広島で知り合ったが、彼が大分出身ということもあり、また、同じ企業グループの会社ということもあり、どちらかというと彼の方から年に一回コンタクトをしてきた。享年69才、早すぎる逝去である。今年の年賀状には病気のことなど一言も書いてなかったが、どういう原因なのかを、会ったこともない残されたご家族に聞くことも憚られ、「ああ、あいつも亡くなったか」という思いだけが残る。「年賀状は安否確認の手段」と人はいうがまさにそのようなものだと私も思う。
さて、今年の年賀状であるが、123か所の住所も確認し文面も決まった。しかし、今年は思い切って「断捨離」を実行しようと思う。年賀状のやり取りを、来年からはやめますという、内容で123軒のうち約80軒に出状しようというもの。(文面は下記)

謹賀新年
旧年中は大変お世話になりありがとうございました。
さて、私も今年70才を迎え全てにおいて失礼することが多くなりました。
従いまして、年賀状のご挨拶は本年をもちまして控えさせていただきます。
長い間お付き合いくださいまして誠にありがとうございました。
なお、近況つきましては、下記ブログに掲載しますので覗いてみてください。
また、メールアドレスと電話番号を併記しましたので、お便りいただければ幸いです。
これからも引き続きご厚誼のほどよろしくお願い申し上げます。
平成29年元旦

長年の習慣とはいえ、年賀状の取りやめ宣言は少し勇気のいる決断であった。そこで、出状停止の先は、
@ほとんど会うことがない人
A会社関係(取引先、会社の先輩、同僚など)、学校関係
B通常メールをやり取りし、時々会うことができる人
CSNS環境にある人(ブログが覗ける人)
に限定して、選ばせてもらった。結果、残ったのは、ポン友、親戚、非常にお世話になった方になってしまった。いわは、生死の確認が本当に必要な方々と言おうか。

さあ、年賀状作成に取り掛かろう。
                 (平成28年12月14日)



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2016/12/14

充実の3カ月  日記
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夕闇迫るハウステンポス(9月28日)

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福島・霊山(10月26日)

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長崎本線・七浦駅付近からの雲仙(11月9日)

次女が出産のため帰省した8月初めから、孫が帰った11月上旬までの3か月間は我が家にとっては忙しくも、充実した月日であった。

8月初め次女は、出産のために帰省。産院はわがまちでも有名な病院である。その名前を知人に出すと、「うちも」「うちも」という言葉が返ってきた。我が家の一階の和室が、妊婦と産まれてくる孫のための部屋となる。
大きなおなかをした娘は、出産の準備に忙しく、産まれてくる男子の衣類や家具の買い出しに、毎日付き合わされた。そんな中、9日、里山ボランティアの「ソーメン流し」に参加した。すっかり月イチの出席になってしまっているこのボランティアには、何とか籍を残したいので、必死である。

9月にはいっての出産の様子はすでに書いたとおりであるが、月末には中学校の同期会のために帰省。3泊四日でゴルフと同窓会、ハウステンボス観光、福岡観光と忙しく遊んできた。

10月には広島の義母を見舞ったほか、月末には福島県の霊山に登り、帰りには飯坂温泉に一泊した。ゴルフの明遊会は9月に引き続き雨のため中止。今年5回目の中止には幹事のわが身も責任を感じ、「お祓い」でもしなければという思いに駆られる。(11月は久しぶりに開催できた)

11月は学生時代の下宿仲間とのゴルフに、長崎まで出かけた。一日目は大雨、しかも、海沿いのコースゆえ、ボールを10個ほど失くした。二日目は大村湾カンツリー、天気も回復し、懐かしいコースを懐かしいメンバーと回って楽しい一日であった。今回は佐賀から久しぶりに長崎本線を使って長崎入りしたが、すれ違いの為、鈍行並みに遅い特急かもめが、有明海に沿って走る風情に感動した。有明海越しの雲仙は、本当に素晴らしかった。近いうちに長崎新幹線ができるそうだが、今の線はぜひ残してもらいたいものである。    (11月23日記)

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2016/11/23

鯉太郎去る  日記
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昨日、約2カ月滞在した初孫の”鯉太郎”が品川の家に帰っていった。一階の和室を片付け、我が家は再び夫婦二人の「EMPTY NEST」に戻った。朝起きたらいつも声をかけていた相手がいなくなることは寂しいものである。
この二月間、鯉太郎は目覚ましい成長を遂げた。体重が3Kgから7Kgになったことも驚異的であったが、言葉をかけると反応する様は、まさに、知恵が発達しているなーと実感させられた。勿論、対話にはならないが、話し相手にも充分であった。
逗留最後の日になった18日は天気も良くなり、近くの公園に乳母車で散歩して、しばしのお別れを惜しんだ。乳母車に不慣れな「新米じいちゃん」の姿は、はた目から見れば、さぞ、危なしかったことだろう。近所の知り合いのおばさま方にもらった、「お世辞」も素直にうれしく思った。
「また、遊びに来たら、いっぱいお散歩しようね」      (11月20日記)
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2016/10/17

龍蔵院  日記
広島は燃えていた

日時:10月8日〜11日

半年ぶりの広島。第一目的は高齢の義母の見舞い。すっかり弱ってしまった義母は老人ホームから病院に転院され、人生最後の日々を戦っておられた。
第二目的は、ザンスカールで知った広島にあるチベット仏教(ゴマン学堂)の寺、真言宗「龍蔵院」を訪ねることであった。そして、クライマックスシリーズを控えた、広島の街の空気を吸うことも。
「龍蔵院」は広島市街の北部、牛田早稲田の山裾の山稜にへばりつくように立っていた。40年前広島支店勤務の際、牛田早稲田にある独身寮に2年ほど住んだが、そのころの牛田地区は麓は住宅街であったが、山が迫り、わずかに段々畑が広がっていた。それが、山稜に多くの高層マンションが立ち並び大きな住宅街となっていた。
市の中心の紙屋町を発したバスは、以前は牛田旭と牛田東の二つの終点を目指していたが、現在は、牛田旭でUターンして、牛田東、広島女学院前を経由して牛田早稲田の終点まで走っている。牛田東2丁目でバスを降り、住宅街の間の狭い入口から急坂を登ること約10分、チベット仏教の「タルチョ」がはためく木々の間に、龍蔵院を発見した。
境内を見ていると、寺から女性が出てこられ、訪問の経緯を話すと、中に招き入れて下さった。そこには、チベットからインドに亡命し、チベット仏教を広めるために来日されている、一人の僧が居られた。お茶を飲みながら、ザンスカール・「ストンデ寺院」で会ったTさんのことをお話ししたら、かつて広島で一緒に過ごしたこと、実はTさんはストンデ寺院の管長さんであることを教えて下さった。Tさんの来日予定を聞いたところ、ストンデの管長職を卒業されれば、来日も可能であろうとの話しであった。そして、来院の記念にと、ダマイ・ラマ法王が直々に御加持されたという赤い「スンドウ」(金剛線)のお守りを、わざわざ手首に巻いて下さった。
毛利元就公が広島に城を築くために、下見した場所に立つという、由緒ある「龍蔵院」ではあるが、あまりにも地味で、広島の人もあまりご存知ではないのではと思う。ましてや、チベット仏教を広める寺院であることなど。
もう二度と行くことはないであろう、遥かなるザンスカールの思い出を、再び強く思い出させてくれる小さな旅であった。            (10月17日記)

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広島のお土産はもみじ饅頭と「鯉太郎」にカープの星・丸外野手(千葉県出身)のTシャツ
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2016/10/17

初孫  日記
「鯉太郎誕生」
9月8日、夕食を済ませた娘が、「来たー」と宣告。私はいつもの通りビールで晩酌をしていましたので、妻が娘を産院まで運びました。私は、留守番。翌日午前1時半ころ、出産に備えて東京から駆けつけて、我が家に泊まっていた婿殿に、産院から呼び出しの電話があり、酔い醒めの眠い眼をこすりながら、婿殿を産院まで送りました。婿殿を残し、帰宅して寝ていると、午前6時半ころ、婿殿から無事出産の報告電話。出生時刻午前3時33分。体重3200グラムとのこと。すぐに、不眠不休の婿殿を産院に迎えに行きました。面会時間の午後三時に再び産院を訪ね、娘に抱かれた孫に対面。新生児室の窓越しでしたが、初孫の誕生を実感しました。
翌10日、わがカープ(鯉)は25年ぶりのセリーグ優勝。一緒にテレビを見ていた妻と優勝決定の瞬間、婿殿の前でハイタッチしました。(9月18日記)

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