2017/10/10

雨季のアンコールワット  日記
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天空の城・ラピタのモデルと言われるベンメリアの遺跡

日時:9月30日〜10月4日(3泊5日)
ルート:成田〜ANA〜プノンペン〜カンボジアアンコールAIR〜シェムリアップ

旅の目的は妻が支援をしている、ラタナさんに会うことと、できれば、昨年まで支援していた、ウッチー君に会うこと。ANAがプノンペンまで直行便を飛ばすということで、気分的にも楽だし、何よりも昨年の訪問で知り合った日本語を話せるガイドのボンタオン君と日本語でメールで連絡が取れるようになったことが、一歩踏み出す良い理由となった。チケットは妻がSNSで見つけたJTBの格安ツアー、すなわち、Hotel & Air のWEB予約ツアーで、一人約7万円。添乗員は付かず、現地(シェムリアップ)での空港送り迎えのみ。プノンペンでの国際線から国内線(またその逆)は自分たちでやらなければならないが、何度もカンボジアに行っている妻にとっては、不安はほとんどなさそうであった。

第一日目:10月1日(日曜日)
 ミサが済んだ教会で会う約束通り、仲介役のSr.ポーンチップ とラタナさんに感激の再会をする。ラタナさんに日本からのお土産を渡したところ、彼女の母親からということで、クロマー(カンボジアの手ぬぐい)と手作りの袋をいただいた。教会のテラスではトテット神父も入れて、しばらく歓談した。一方、教会で会えたらと、face book で連絡していたウッチー君はついに現れず、Sr.ポーンチップにお願いして、同君の友人から宿泊先を連絡してもらうことにした。
教会のあとは、近くの博物館見学し、そのあと、以前ウッチーが働いていたという、「ラッフルズホテル」のレストランでカレーの昼食をとった。シェムリアップでNo.1 のラッフルズホテル(グランドホテル)の中は素晴らしかった。中庭も見たいという妻の願望は封鎖して、外に出たが、庶民は自由に徘徊できるような雰囲気ではなかった。ホテルでは数人の日本人を見かけたが、妻によると宿泊客ではなく、2000円の「アフタヌーン Tea Party」の客だという。一泊7万円以上とガイド氏がいう如く、ラッフルズホテルはここでは別格のホテルのようだった。

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クーレン山(プノン・クーレン)の涅槃仏

第二日目:10月2日(月曜日)
 約束の7時半に宿泊しているアンコールホテルのロビーでガイドのボンタオンが待っていてくれた。一年ぶりだったが、しっかり顔を覚えてくれていた。専用のタクシー(実はライトバン)で走ること約2時間、今回第一の観光目的地「クーレン山」に着く。400Mの山だが、山頂の寺院まで、道路が1本しかなく、午前中は登りの車だけ通し、12時からは下りの車だけだ通行可能という。従って、12時までは山上の遺跡巡りで時間を費やすしかない。シェムリアップに流れる川の源流ということで、多くの神々が川の流れの中の岩に刻まれているそうだが、雨季の増水の為全く見えなかった、代わりに、少し下流の滝は「ナイアガラ」よろしく、大瀑布となっていた。

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「カンボジア・ナイアガラ滝」

クレーン山を下りあと、雨季のトンレサップ湖の水上生活者の家を見ようと、コンポン・プルックを訪ねた。昨年訪れた時、トンレサップ湖は、水位が随分低かったが、今回は、雨季の末期で増水し始めているとのことであった。
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夕方、ホテルに着くと、ウッチー君からの伝言が入っていた。電話番号が書いてあったので、ガイドに携帯を借りて、カンボジア語で通訳をしてもらい、ホテルに来てもらった。彼は今やシェムリアップから15KMほど西のレストランで働いているという。雨の降る中、バイクでわざわざ駆けつけてくれ、感激の再会となった。ガイド氏に紹介されたホテル近くのレストランで食事をしながらの歓談。英語がうまくなったウッチーの言葉についていけず、話半分しか、理解できなかったが、3カ月ほど前に今の職場に変ったこと、その理由は、シェムリアップの生活費が高く、新人の給料ではやっていけなくなったことのようだった。ウッチーはその夜、シェムリアップの友人宅に泊めてもらい、翌朝早く、そこから出勤するという。何ともうれしいウッチーの歓迎ぶりであった。

第三日目:10月3日(火曜日)
3日間の予定はあっという間に過ぎ、最終日は、ホテル出発の午後4時まで、自由時間。従い、午前中はちょっと郊外に行き、昼までに市内に戻って、市内の寺巡りをした。
市内から約50KMにある「ベンメリア」は懐かしい寺。私たちが2008年、初めてカンボジアに来た時、どういうわけか勧められて訪れた一つがこのベンメリアであった。当時、内戦の名残がまだ強く、ガイド氏からはポルポトの残党が山賊となって、観光客を襲うことが頻発しているといわれたことを思い出す。ゲリラ出没地区は車を猛スピードで突っ切った。当時、遺跡は全く手つかずで、散乱する石をよじ登ったが、今や、ベンメリアはアンコールワットに次ぐ人気スポットということで、多くの客が訪れていた。石歩きも全くなく、木製の橋が遺跡の中に張り巡らされていて、観光客はそこから崩壊した遺跡を見ることできた。以前見れなかった、高所からの光景は、ベンメリアをまた、新たな魅力ある遺跡にしたようだ。

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ベンメリア


「天空の 破壊の城や ベンメリア」      (10月7日 記)



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2017/9/25

季節の変わり目  日記
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鯉太郎が初めて立ちました

9月は忙しい。
旅行から帰って、18日は自治会主催の「敬老会」に招かれた。70歳以上を招待する会には、18名の参加があり、当然私が最年少。今年から参加の新参者に、御礼の挨拶の番が回ってきたが、しこたま飲んで酔っ払ってしまったので、考えていたことの半分も言えなかった。尤も、宴の終わりで誰も聞いていないが。
23日は鯉太郎が両親と訪ねてくれた。昼食を取りに、南房総に行っている両親に代わって子守をする。時を同じくして長女夫婦も訪ねてくれ、久しぶりに賑やかな時間を過ごした。

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家のプルメリアが3年ぶりに咲いた。ここ数年、蕾は付くが開こうとすると、落花していたが、久しぶりの開花となった。この木は十数年前にハワイから買ってきた枝を挿し木したものだが、この花を見ると、また、ハワイに行きたくなった。そういえば、今年からJALがハワイ島コナへの直行便を開設したという。ハワイは何度行ってもいいところだ。
ところで、プルメリアの花言葉を調べてみたら次の通り。「気品」「恵まれた人」「日だまり」「内気な人」

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インド舞踊は民族衣装も派手やかで、動きもセクシー

今年も「インドフェスタ」が開催されるということで、9月24日、代々木公園に出かけた。お目当ての「ラダック」のブースでは、「山高」さんに会うことができ、ラダックの最新情報を聞くことができた。インド観光庁も北部インドの宣伝に力を入れているようで、レーだけでなく、シッキム地方の紹介もしていた。かつて、エベレスト遊覧飛行で遥か彼方に見た「カンチエンジュンガ(8586M・世界第三位)」を間近で見るため、いつかダージリンに行ければいいなーと思う。                    (9月25日 記)
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2017/9/24

片山津温泉・ゴルフ  日記
日時:9月12日〜15日

行程:
第一日目:西船橋〜中央道〜松本〜高山〜(東海北陸自動車道)〜金沢(泊)

第二日目:金沢〜片山津ゴルフ場〜北稜(泊)  ラウンド:加賀コース

第三日目:ラウンド:日本海コース コース〜片山津温泉・「湖畔の宿森本」(泊)

第四日目:片山津温泉〜(北陸自動車道)〜富山IC〜(R41)〜神岡〜(R471)〜平湯〜   
     松本〜中央道〜西船橋

内容:まず、往復約900KM、約18時間の全行程を二人で運転をしてくれた、車オーナーのSO君、および首都高の大渋滞をうまく切り抜けてくれた、KO君の二人に感謝したい。
行程中、高山から東海北陸自動車道と、富山から神岡を経由して平湯に抜けるコースは、人生で初めてのドライブであった。
今年の、山仲間のゴルフ会は35周年記念大会ということで、幹事さんが大奮闘してくれ、憧れの片山津ゴルフ場で、二日続けてのプレイとなった。ゴルフの成績は、大事にキープしていた高ハンディキャップを頼りに上位入賞を狙ったにも拘わらず、不満の残るものであった。しかし、二日間とも好天に恵まれ、良い思い出になった。
二日目には、大学卒業以来、47年も会っていなかった、小松市に住むS君と宿の「北稜」で会うことができた。お互い、40年近くの人生をざっくばらんに話すことができ、学生時代にタイムスリップしたような気分になった。
ゴルフ場は小松基地のすぐ傍で、ジェット機の発着陸の爆音に悩まされたが、さすがに北陸の名門コースで、手ごわかった。
宿のある片山津温泉郷は、灌水湖の出口に水門を付けて、淡水湖にした柴山潟のほとりにあった。近くには、木曽義仲と平家の古戦場(「首洗い池」・「実盛塚」)や、柴山潟の「主」だあった龍をいさめた弁天様の鎮座する「浮御堂」があるなど由緒あるところであった。湖面では、冬になると訪れる、白鳥を模った大きな噴水も、定期的に噴き上げていた。遠くに白山が見れるはずだが、建物の向きの加減で、ホテルからは見れなかったが、帰途、北陸自動車道の車窓から、ちらりと見えた。なにしろ、白山は年に40日しか片山津からは見れないとの、地元の人の話であった。
帰途立ち寄った、神岡ではあの「カミオカンデ」の駅の道があって、施設の展示などしていたが、実際の場所は地中深く、一般の人は近づくこともできないとは、店の人の話であった。三井鉱山のトンネルを利用したこの施設は、一般の我らには想像を絶するものである。(9月24日記)
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2017/9/24

石清水八幡宮  日記
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石清水八幡宮は雨

日時:9月7日〜9日

行先:第一日目:関空〜八幡〜男山(石清水八幡宮)〜十三(泊)

   第二日目:十三〜逆瀬川(宝塚ゴルフクラブ・旧コース)〜阪急茨木市〜十三(泊)

   第三日目:十三〜梅田(阪急インターコンチネンタル大阪)〜関空

内容:

大阪は私の入社初勤務の場所である。毎年大阪OB会の案内が来ていたが、山のOBゴルフ会と重なり、大阪の方をパスしてきたが、今年はうまくずれたので、翌日の昼食会と合わせて、出席した。
今年、会社関係の方々への、年賀状・断捨離をしたので、その挨拶も兼ねていた。
往復のLCCが関空発着ということで、初めて関空に行った。海上空港は成田に比べ広々としており、なんだか、作りがタイの空港に似ていた。
第一日目はホテルに入るまで時間があったので、先日テレビで見た「京阪電車特集」に触発され、「石清水八幡宮」を訪ねることにした。大阪勤務時代、京阪を使って、何度か京都や宇治に遊びに行ったが、京都の途中に、歴史もある八幡宮があるとは、その、テレビ番組を見て初めて知った。
京阪京橋からの途中、守口や門真それに樟葉など懐かしい駅を通ったが、昔の印象に比べ街並みが随分大きく感じられたが、それもそのはず、もう40年以上も過ぎている。
石清水八幡宮のある、男山には、八幡市駅から、ケーブルカーが山頂まで運んでくれた。季節外れの雨模様ゆえ、訪れている客はまばらであった。山頂の展望台に行って驚いたことには、この場所が、京都を望む絶好の場所にあることだった。眼下には、京を潤す三大河川、木津川、宇治川、桂川が中州を作り、目の前には、大山崎の山並みや京都市の南部が見える。遠くに京都タワーや比叡山も見えるはずだが、雨に霞んでいる。こんなにすごい要衝に位置して、この神社はどんな歴史を見てきたのだろうと、思わずにはいられなかった。秀吉に敗れた光秀は、どんな思いで、この山を見上げたのだろうとも、思う。テレビ番組を見ていなかったら一生知らなかった場所の発見に、今回の旅の最大収穫となった。

「秋雨に 比叡も霞む 男山」 (9月22日記)


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2017/9/23

カープVSジャイアンツ  日記
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一塁側二階席14列129番よりの眺め

日時:8月30日
場所:東京ドーム

「カープ女子」になった妻と野球観戦に行きました。妻が生協から手に入れたシルバー切符?です。
鯉太郎から借りた「丸くん」のユニフォームを振って応援しましたが、結果は6対4で負ました。敗因は二回相手ピッチャーの宮國にヒットを打たれたことに尽きますが、随所に細かいミスがあったように思えます。一回の攻撃で、大量点のチャンスにも拘わらず、1点しか入らなかったことも、試合の流れを決定づけました。攻撃面では、鈴木選手の欠場を、松山らでカバーしているように見えますが、やはり、鈴木の負傷(全治3か月とか)欠場の穴は大きく感じました。ただ、今日の収穫は、丸くんの3安打とセンター大飛球キャッチのファインプレー、それに、新井のツーベース適時打を見ることができたことです。大瀬良投手の粘り強い投球も、今後の試合に期待できそうでした。何より、多くのおばさんたちが大瀬良のユニフォームを着て闊歩していました。大瀬良って女性に人気なんだなーと改めて感心しました。       (9月1日 記)
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2017/8/29

月山  登山
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羽黒山・三神(月山・湯殿山・羽黒山)合祭殿(本殿)

日時:8月25日(金)〜27日(日)

天気:曇り、風強し

宿泊:第一日目「休暇村羽黒」 第二日目「羽黒山斎館」

百名山である月山には、2009年9月19日に姥沢登山口から登ったが、今回は妻の希望もあり、月山の表口からアプローチした。実は今を去ること約30年前、フランス人と結婚した妻の友人家族と我が家の総勢9名で今回と同じ表口からトライしたが、風雨の為、8合目の登山口で引き返したことがあった。その時は羽黒山の石段を登り、途中国宝の五重塔を見て、羽黒山の斎館に泊まった。今回は第一日目を「休暇村羽黒」に宿を取り、二日目に斉館に泊まった。

第一日目:くもり
 千葉〜東京〜新潟〜鶴岡〜休暇村
電車バスの乗り継ぎで、8時に千葉出発、羽黒山には15時に到着。前日の大雨で、日本海に注いだ濁流の為、海岸近くは黄色く濁っていた。鶴岡からは月山も雲の中で見えず。この前来た時の石段をパスしたので、バスはあっけなく羽黒山の中腹にある休暇村羽黒に到着した。

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月山中腹・無量坂付近からの「弥陀が原湿原」

第二日目:くもり・風強し
休暇村発8:10の月山8合目行きにのバスに乗って、約1時間、登山口のレストハウスに着いた。レストハウスでは荷物を無料で預かってくれたので、リュックもずいぶん軽くなった。
出発は9時10分。登山道は木道から始まったが、弥陀ヶ原を過ぎたあたりから、石ころ道となった。坂そのものが緩いため疲れは感じなかったが、さすが月山、長い坂道に苦闘する。途中、一の岳と二の岳の間(通称畳石)が、風の通り道となっていて、強風で前に進めない。かつて、岩手山山頂付近で遭遇した風ほどではなかったが、慣れない妻は道に座り込んでしまったので、救助に道を引き返し、二人で連なってやっと難所を切り抜けた。
九合目の「仏生池小屋」に着いたのが、11時。登山口から(観光用)コースタイム通り約2時がたっていた。一般の登山ガイドでは、登山口から9合目まで1時間となっているので、苦労の程が証明された。強風にあった妻は恐れをなし、先に進むのをあきらめて、一旦下りかけたが、未練心で、引き返し、小屋を通り越して、山頂を目指した。しかし、10分ほど歩いたところで、風も強くなり、山頂付近は雲に覆われていたので、最終的に登るのをあきらめ小屋に沈。500円の味噌汁をたのんで昼食とした。
12時、小屋を出発、再び、風の通り道で、強風に会い、ちょっと油断したすきに、妻は転んでしまった。しかし、けがはなく、長いだらだら坂を下り、弥陀ヶ原湿原を周遊して、レストハウスに着いたのが2時半。バスの出発時刻の4時まで、レストハウスでビールを飲みながら、時間をつぶした。

第3日目

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羽黒山にある「斎館」

30年前、二家族10人(4+6)が泊まった時には、50畳もあるかと思われる、大広間に10メートルほどの距離を置いて、家族が固まって寝たが、今回は、茶室を兼ねた「香覧亭」の個室であった。前夜の夕食の際、亭主が7時からある羽黒山神社本殿の祭事に出ることを勧めてくれたので、羽黒山の境内を見物したあと、斎館から直接繋がる渡り廊下を伝って本殿に行った。本殿では斎館に泊まった客以外にも、2〜3名が一緒に鎮座して、ありがたい神主さんの祝詞を受けた。その間約30分。正座した足は不思議にもしびれが来ず、神主から受けた、数珠のお祓いもあり、快適な朝の修行となった。これまで、祝詞は何度も受けたが、数珠のお祓い(頭をなでる)は生涯初めてであった。きっと、何か良いご利益がありそうな予感がする、パワースポットの一泊であった。

羽黒山からの帰りのバスから、晴れ渡った月山が見えた。そして、頭を返すと、山腹に未だ雪を残す鳥海山がくっきりと聳えていた。
今回、登頂はならなかったが、ゆっくりした山旅そして休暇村の美味しい料理と羽黒山の精進料理、三山本殿での数奇な体験などで、充実した時間を過ごすことができた。(8月29日 記)

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2017/8/14

海水浴  日記
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初めての九十九里浜

日時:8月13日

久しぶりの晴れ間を利用して、九十九里浜・不動堂海岸に行きました。鯉太郎は7月15日から沖縄で両親と海水浴をしましたが、ジジババとしては、是非、九十九里浜にも連れて行きたくて、専用のビーチテントを買いました。波打ち際では、最初、怖いのか大泣きをしましたが、慣れてくると笑顔も見せました。ただ、なにせ歩行前ですので、せっかくの遠浅の海岸は、ジジババに手を引かれて立ち尽くすのみ。広い広い海は、鯉太郎にはどのように映ったでしょうか。  (8月14日 記)
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2017/8/14

鯉太郎の夏合宿  日記
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昔「カタカタ」いま「ウォーカー」

日時:8月7日〜14日(予定)

7日、鯉太郎がお父さんに連れられて我が家にやって来ました。最初は8日からの予定でしたが、台風5号が関東に接近中ということで、一日早くなりました。お母さんは4日からインドに旅行中で、お父さんも11日から東チベットに出発予定です。そんなわけで、鯉太郎はお母さんが帰国する14日まで、一人で我が家で夏合宿に入っています。ジジババとしては久しぶりの育児。ババは35年前の経験をすっかり忘れてしまったと、頭を抱えています。爺は昨夜鯉太郎と初めて一緒にお風呂に入りました。「男同志の裸の付き合い」がこれから始まります。   (8月10日記)
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2017/8/10

墓仕舞い  日記
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墓地は森の中に戻る?

日時:7月31日〜8月2日

70歳になった区切りに、これからの10年を予想して、「失われた10年」にならないよう、人生の手じまいに着手することにした。その最初が故郷の墓地の処置である。
我が家が現在の田舎に来たのは祖父の頃。祖父は志を持って、隣の市から転居した時、父母の墓を庄屋さんからもらった土地に建てている。墓を移す際には「お骨」持ってこず、墓石だけを建立したという。その後、筆頭小作人となったおかげで、庄屋さんの広大な墓地の一番近くにある土地を譲り受け、当家の墓地とした。そこに、昭和14年、当地に住む弟と共同で、家累代の墓を建てた。しかし、本人はすでに昭和12年に、東京に住む息子たちを頼って、東京大森に移住していた。墓の建立は何時かは田舎に帰って、故郷の土になりたいと思ってのことだったろうか、父から何も聞いてないので、その心持を知ることはできない。
昭和20年1月の空襲の最中、祖父は妻、嫁、二人の孫を連れて、東京からもと住んでいた居た当地に疎開し、当地が終焉の地となった。その後、祖父は次男の戦死の報を受け、次男の為に墓を建てた。勿論この墓には遺骨はない。受け取った「遺骨箱」には紙切れ一枚しか入っていなかったと、母から聞いた。
祖父は昭和33年に没し、その頃は許されていた土葬による埋葬を行った。その後、甕棺の傍に昭和38年に没した祖母の遺骨も埋葬し、父は弟と共同で祖父の墓を建ている。祖父があえて土葬を選び、累代の墓に入らなかったいきさつは、知るべくもなく。累代の墓には、しばらくの間、祖父の兄弟とその累系のお骨だけが入ることになった。
そして、平成10年に母が亡くなり、続いて平成12年に父が逝って、二人は「累代の墓」に入っている。

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新墓の候補地

墓地にはたった二代の墓石三基しかないが、今後、自分の墓を建てるのであれば、この地を置いて他にないと思う。ここ数年トライした市営墓地は、最初は個別に祭ってくれるものの、10年くらいで、他の遺骨と一緒に埋葬されるルールであり、「散骨」と同じであることを知った。家を継ぐ男児がいない我が家で新たに当地に墓を持つ積りもなく、今はやりの「樹木葬」とか「散骨」とかは、自分の墓地を持つ者にとっては不要だ。もし、仮に田舎の菩提寺が納骨堂を作り、父母と一緒に入ったとしても、関東からわざわざ娘たちがお参りに行くことも考えられない。されば、遺骨をどこに置こうが、いずれは無縁仏の身なれば、いっそ、我が家の墓地の一角に、小さくても墓碑を建て、父母と一緒に眠るのが上策と決心した。
今の墓石は「石屋」に処分してもらい更地にしたあと、小さな墓石を置こう。尤も、土葬の祖父と傍に寄り添う祖母のお骨はそのままにして、小さな目じゅるしとなる石を置くか、今のままにしておこう。墓碑は墓地の一番奥に生えている「木斛」の下に置き、墓底もコンクリートなど張らずに、自然の土とししたい。骨は骨壺などには入れず、代わりに絹の袋に入れて、そのまま、土に帰れるようにしよう。墓碑はいずれ、樹木に覆われ、自然に帰っていく。これって、「OIDON式樹木葬」でしょう?。
宗派の違う妻は、見ず知らずの土地に葬られることはイヤだと、今から宣言しており、一緒に入ることは望むべくもなく、旅行ついでに、「ハイキングがてら」娘らがはるばる尋ねてくれるのを期待するのみである。
そんな訳で、今回、2泊3日で、「累代の墓」の関係親戚筋を訪ね、「墓の処置は自由にやって良い」との了解をいただいてきた。
その間、高校時代の旧友と博多の街で痛飲し、約20年ぶりに従妹と会い、最近退職した甥夫婦と会食しての充実の旅であったが、少々疲れてしまった。   (8月4日記)
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2017/8/10

岳滅鬼山  日記
岳滅鬼山(1036.8M)

この山の呼び名はわかりますか?「がくめきさん」と呼びます。今回の「平成29年7月九州北部豪雨」の気象上の原因とされる「線上降水帯」の発生を、報道機関は佐賀と福岡の県境にある「背振山(1055M)」にぶちあたたって発生した雲によるという説明が多かったが、私には福岡(朝倉市)・大分(日田市)県境にある英彦山(1199M)とこの「岳滅鬼山」連山に原因するのではないかと思えてならない。昭和32年の諫早大水害が佐賀県と長崎県の境にある多良岳・経が岳連山によって発生した雨雲によることはよく知られているし、3年前に起きた「広島集中豪雨」も僅か4〜500メートルの連山(火山〜武田山〜阿武山)で発生した上昇気流に因った。
もともと、「鬼」とか「龍」のつく地名は、昔から災害が起きやすいところにつけられているように、「岳滅鬼」山も、これまで多くの災害を引き起こした場所なのだろうと想像する。
気象状況(気圧配置)によっては、低山も油断ならない豪雨の発生装置になることを、被災された方には申し訳ないが、教訓として残すために筆を執った。    (7月28日 記)
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