2017/8/14

海水浴  日記
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初めての九十九里浜

日時:8月13日

久しぶりの晴れ間を利用して、九十九里浜・不動堂海岸に行きました。鯉太郎は7月15日から沖縄で両親と海水浴をしましたが、ジジババとしては、是非、九十九里浜にも連れて行きたくて、専用のビーチテントを買いました。波打ち際では、最初、怖いのか大泣きをしましたが、慣れてくると笑顔も見せました。ただ、なにせ歩行前ですので、せっかくの遠浅の海岸は、ジジババに手を引かれて立ち尽くすのみ。広い広い海は、鯉太郎にはどのように映ったでしょうか。  (8月14日 記)
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2017/8/14

鯉太郎の夏合宿  日記
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昔「カタカタ」いま「ウォーカー」

日時:8月7日〜14日(予定)

7日、鯉太郎がお父さんに連れられて我が家にやって来ました。最初は8日からの予定でしたが、台風5号が関東に接近中ということで、一日早くなりました。お母さんは4日からインドに旅行中で、お父さんも11日から東チベットに出発予定です。そんなわけで、鯉太郎はお母さんが帰国する14日まで、一人で我が家で夏合宿に入っています。ジジババとしては久しぶりの育児。ババは35年前の経験をすっかり忘れてしまったと、頭を抱えています。爺は昨夜鯉太郎と初めて一緒にお風呂に入りました。「男同志の裸の付き合い」がこれから始まります。   (8月10日記)
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2017/8/10

墓仕舞い  日記
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墓地は森の中に戻る?

日時:7月31日〜8月2日

70歳になった区切りに、これからの10年を予想して、「失われた10年」にならないよう、人生の手じまいに着手することにした。その最初が故郷の墓地の処置である。
我が家が現在の田舎に来たのは祖父の頃。祖父は志を持って、隣の市から転居した時、父母の墓を庄屋さんからもらった土地に建てている。墓を移す際には「お骨」持ってこず、墓石だけを建立したという。その後、筆頭小作人となったおかげで、庄屋さんの広大な墓地の一番近くにある土地を譲り受け、当家の墓地とした。そこに、昭和14年、当地に住む弟と共同で、家累代の墓を建てた。しかし、本人はすでに昭和12年に、東京に住む息子たちを頼って、東京大森に移住していた。墓の建立は何時かは田舎に帰って、故郷の土になりたいと思ってのことだったろうか、父から何も聞いてないので、その心持を知ることはできない。
昭和20年1月の空襲の最中、祖父は妻、嫁、二人の孫を連れて、東京からもと住んでいた居た当地に疎開し、当地が終焉の地となった。その後、祖父は次男の戦死の報を受け、次男の為に墓を建てた。勿論この墓には遺骨はない。受け取った「遺骨箱」には紙切れ一枚しか入っていなかったと、母から聞いた。
祖父は昭和33年に没し、その頃は許されていた土葬による埋葬を行った。その後、甕棺の傍に昭和38年に没した祖母の遺骨も埋葬し、父は弟と共同で祖父の墓を建ている。祖父があえて土葬を選び、累代の墓に入らなかったいきさつは、知るべくもなく。累代の墓には、しばらくの間、祖父の兄弟とその累系のお骨だけが入ることになった。
そして、平成10年に母が亡くなり、続いて平成12年に父が逝って、二人は「累代の墓」に入っている。

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新墓の候補地

墓地にはたった二代の墓石三基しかないが、今後、自分の墓を建てるのであれば、この地を置いて他にないと思う。ここ数年トライした市営墓地は、最初は個別に祭ってくれるものの、10年くらいで、他の遺骨と一緒に埋葬されるルールであり、「散骨」と同じであることを知った。家を継ぐ男児がいない我が家で新たに当地に墓を持つ積りもなく、今はやりの「樹木葬」とか「散骨」とかは、自分の墓地を持つ者にとっては不要だ。もし、仮に田舎の菩提寺が納骨堂を作り、父母と一緒に入ったとしても、関東からわざわざ娘たちがお参りに行くことも考えられない。されば、遺骨をどこに置こうが、いずれは無縁仏の身なれば、いっそ、我が家の墓地の一角に、小さくても墓碑を建て、父母と一緒に眠るのが上策と決心した。
今の墓石は「石屋」に処分してもらい更地にしたあと、小さな墓石を置こう。尤も、土葬の祖父と傍に寄り添う祖母のお骨はそのままにして、小さな目じゅるしとなる石を置くか、今のままにしておこう。墓碑は墓地の一番奥に生えている「木斛」の下に置き、墓底もコンクリートなど張らずに、自然の土とししたい。骨は骨壺などには入れず、代わりに絹の袋に入れて、そのまま、土に帰れるようにしよう。墓碑はいずれ、樹木に覆われ、自然に帰っていく。これって、「OIDON式樹木葬」でしょう?。
宗派の違う妻は、見ず知らずの土地に葬られることはイヤだと、今から宣言しており、一緒に入ることは望むべくもなく、旅行ついでに、「ハイキングがてら」娘らがはるばる尋ねてくれるのを期待するのみである。
そんな訳で、今回、2泊3日で、「累代の墓」の関係親戚筋を訪ね、「墓の処置は自由にやって良い」との了解をいただいてきた。
その間、高校時代の旧友と博多の街で痛飲し、約20年ぶりに従妹と会い、最近退職した甥夫婦と会食しての充実の旅であったが、少々疲れてしまった。   (8月4日記)
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2017/8/10

岳滅鬼山  日記
岳滅鬼山(1036.8M)

この山の呼び名はわかりますか?「がくめきさん」と呼びます。今回の「平成29年7月九州北部豪雨」の気象上の原因とされる「線上降水帯」の発生を、報道機関は佐賀と福岡の県境にある「背振山(1055M)」にぶちあたたって発生した雲によるという説明が多かったが、私には福岡(朝倉市)・大分(日田市)県境にある英彦山(1199M)とこの「岳滅鬼山」連山に原因するのではないかと思えてならない。昭和32年の諫早大水害が佐賀県と長崎県の境にある多良岳・経が岳連山によって発生した雨雲によることはよく知られているし、3年前に起きた「広島集中豪雨」も僅か4〜500メートルの連山(火山〜武田山〜阿武山)で発生した上昇気流に因った。
もともと、「鬼」とか「龍」のつく地名は、昔から災害が起きやすいところにつけられているように、「岳滅鬼」山も、これまで多くの災害を引き起こした場所なのだろうと想像する。
気象状況(気圧配置)によっては、低山も油断ならない豪雨の発生装置になることを、被災された方には申し訳ないが、教訓として残すために筆を執った。    (7月28日 記)
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2017/7/21

プール開き  日記
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梅雨明け
本日、やっと、関東地方は梅雨明け宣言です。素人の判断では、10日以上も前に、梅雨は明けていたのでは思われますが、ともかく、「お上」の言うことが「公式」です。
そんな中、帰省中の「鯉太郎」が生まれて初めての「プール」遊びをしました。初めは怖がっていましたが、慣れてくると写真のように大いに楽しんでくれました。爺は頭や背中が暑くならないように小さなジョウロで水をかけてやりました。真昼間だったので、暑くはありましたが、「蚊」の襲来には会いませんでした。8月中旬に、長期合宿となる鯉太郎とは、庭のプールは勿論、千葉自慢の九十九里浜に海水浴に行きたいと思っています。    (7月19日記)
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2017/7/14

70歳  日記
「夢のまた夢」

一昨日、満70才の誕生日を迎えた。妻からは部屋着の半ズボンのプレゼントがあり、訪問中の長女の嫁ぎ先のお宅でのお披露目となった。婿殿の実家は栃木にあり、夏に泊まりに来てとのお誘いがあり、今回やっと夫婦で伺った次第。
家のすぐ傍は裏側が小高い山、前は広い水田が広がっていた。ホトトギスや小鳥もたくさん鳴いていた。時期が早ければ蛍も見れたという。私が生まれたところとよく似ている。
バーベキューの炭火起こしは、手慣れた私の当番。種火となる枯れ枝を近くの山に入って採集し、見事に炭火を作った様子を婿殿は感心しながら見守ってくれた。広い芝生の庭でバーベキューをし、ビールやワインを夜遅くまで痛飲した。名物の「馬刺し」もたくさんごちそうになった。
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日光・霧降高原の「チロリン村」で「天然氷」で作ったかき氷を食べました(二日酔いで少々疲れ気味)


宴も進み、酔いに任せて我が70才の人生を振り返った。私が生まれた時は「どんぶり茶碗に入りそうな小さな体で、ツバクロの雛のような大きな口でおっぱいを欲しがっていた」と、おばあちゃんから何度も聞かされた話を娘に初めて披露した。多くの病気やけがを乗り越えてよくぞ、この大きさ(174CM)に育って、70才まで生きたものだと思う。これから何年生きて行けるかわからないが、できれば親父の享年91才まで健康な体で生きていたいと思う。そうすれば、成人した「鯉太郎」とお酒を飲むこともできる。これは「夢のまたゆめ」か。せめて、80才になってもゴルフができる体力・知力をこれからも維持していきたいものだ。           (7月11日 記)
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2017/7/11

都議選  日記
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自民党が都議選で惨敗しましたが、鯉太郎が代わりに「坊主」になったわけではありません。極暑を乗り切るための対策です。こんど、我が家に来るときはどんな髪型になっているか楽しみです。
国政での変化を期待するところです。   (7月2日記)
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2017/7/2

前歯が4本  日記
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鯉太郎はますます成長中です。送られた画像に上の前歯が4本になっていることを発見。娘曰く「なんだか、このごろ赤ちゃんぽく無くなってきた」。お母さんに切ってもらった髪も、そういえば黒くなって、確実に赤ちゃんから「幼児」になってきています。  (7月2日記)
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2017/7/2

不如帰  日記
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「唐津くんち」の鯛

義母の逝去(6月4日)

広島の義母が亡くなられた。享年93才、半年間の闘病であったが、最期は眠るように天寿を全うされたという。写真は義母が得意だった絵手紙の一つ。よほど唐津くんちが印象深かったらしく、くんちを見た10年後くらいの98年11月に、娘たちがいただいたもの。文面には「このはがきを揺らしてください。大勢の見物人と勇ましい男衆の歓声が聞こえてきますよ。もう一度行ってみたいお祭りです」と書いたある。しかし、残念ながら、その後、二度とみられることはなかった。東京深川生まれの義母はお祭りが大好き。「男衆の法被姿が、東京の祭りとそっくり」というのが、この祭りを初めて見られた義母の言葉であった。


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義母は深川で生まれて、戦後結婚されるまで、清澄庭園近くに住まれた。その後義父の仕事の関係で、大阪を経て約70年を広島で過ごされた。言葉の通じない、見ず知らずの土地での苦労はいかばかりだったかと思う。「東京に帰りたい」と果たせぬ愚痴を、いつも義父に漏らされたという。
しかし、広島で二女を授かり、孫5人、ひ孫2人を得て、ささやかながらもれっきとした家系を作られた。言葉使いもすっかり広島弁に。葉書には「いつもながらの仲見世ですが、子供の頃からの思い出のところです。そのまま」と記されている。深川付近の風景はいつまでも頭に残っておられるようだった。

写真もいいけど、絵手紙も良い記念になるなーと思う。義母の棺には多くさんの絵手紙を入れたが、我が家に残った義母の絵手紙はいつまでも大切にしたいと思う。(6月16日記)
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2017/7/2

鯉太郎の休日  日記
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後ろ姿もかわいい

「来てうれし、帰って寂し、うちの孫」

連休中、子供を夫の実家に預けて、夫婦で海外に行っていた娘が、「孫見せ」を名目に休養に帰ってきた。ハイハイが上手になって行動範囲が広がった鯉太郎の為に、危険地帯との「壁(柵)」を作ったり、テーブルの角にプロテクターを張ったりと、準備したおかげで、無事五日間の滞在中けがもなく過ごしていった。とにかく動くものが好きで、回転台のテレビを動かしたり、引き出しの取っ手を触ったりと、遊びの天才である。板張りのフローリングに転んで頭を打っても、すぐに泣き止む。つかまり立ちした台をつかみ損ねて尻もちついて、一瞬の恐怖に泣くこともあるが、再び、果敢に挑戦する。次回の来宅が今から楽しみである。     (5月27日記)



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