2018/6/13

四国巡礼・エピローグ(その2)  旅行
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「お参りの作法」

1.山門で一礼

2.手水場で手を洗い、口濯ぎ(衛生状態次第)

3.楼で一回だけ撞く(省いても良い)

4.本堂にて
@ローソクと御線香(3本以上)を立てる。ローソクは後の人がやけどしないように、上からさしていく。皆が終わったら、ローソク立てのケースの窓を閉める。
A納札を納札箱にいれ、賽銭を納める(任意)
B読経
 1)開経偈(かいきょうげ)
 2)般若心経
 3)十三仏真言(三唱):本尊により異なる
 4)光明真言(三唱)「おん あぼぎゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま
           
            じんばら はらばりたや うん」


 5)御宝号(三唱)「南無大師遍照金剛」
 6)回向文「願わくば この功徳をもって あまねく  一切に及ぼし
 
        われらと衆生と みなともに仏道を成(じょう)ぜん 」
5.大師堂にて
@およびA
Bのうち2)、3)、4)、5)、6)

納経所にて
納経した証の墨書・朱印をいただく(JRの係り員が一括して請け負う@300円/一か所)

退出:山門で境内に向かい一礼

これらは、先達の資格を得たJRの職員がリードして行われる。本尊により異なる、十三仏真言や呪文のような光明真言についていくのに苦労した。般若心経については、やっと終わりの頃に皆さんと合唱できるようになった。             (6月13日 記)
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2018/6/12

四国巡礼・エピローグ(その1)  旅行
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金毘羅さん本宮

日時:6月1日(金) 晴れ

四国巡礼のついでに、一度は行きたかった「金毘羅さん」を訪ねた。高松にあるものと思っていたが、ほとんど多度津のそば、善通寺(75番)のお隣さんであった。金毘羅参りは、「琴電」で、と片原町から電車に乗ったが、線路は内陸の讃州平野のど真ん中を南西にひたすら走り、約1時間もかかった。金毘羅さんへのあこがれは、浪曲「森の石松」の話や「二十四の瞳」「瀬戸内少年野球団」の映画の舞台になったからである。勝手に、金毘羅さんは海の守り神なので、そこから海が見えるのかと思っていたが、讃州平野のど真ん中、おそらく、海からは「象頭山」が見えるかもしれないが、金毘羅さんから海は見えなかったのは残念であった。本宮までの石の階段は785段(海抜251M)と言う。巡礼の荷物一式を背負っていたので、途中のお店で預かってもらおうと料金を聞いたところ、500円だという。300円だったら預けても良いのにと思いつつ、節約してリュックは背負っての階段上りとなり、大汗をかいた。特に、最後の本殿への登り約130段は本当につらかった。それでも、高いところ好きなわが身にとっては、一山登ったという感じで、まさに山頂征服の達成感であった。それまでお遍路で鍛えた足腰が物を言った。
金毘羅さんは海の神様らしく、船に関係する会社の「祈願の額(写真など)」が沢山かかっていた。下の写真は、今や我が国を代表する造船業の今治造船が奉納した本物のプロペラである。
広島へはJR琴平駅から、こちらも初めて瀬戸大橋を鉄道で渡って岡山に出た。羽田から松山までの飛行機から、瀬戸内海の島の多さを実感させられたが、瀬戸大橋からの眺めもまた、島また島であった。
          (6月12日 記)

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2018/6/11

四国巡礼・伊予、讃岐の旅  旅行
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大窪寺:四国巡礼結願の寺(88番)

四国巡礼・二国まいり(伊予、讃岐)

日時:5月25日(金)〜5月31日(木)

2015年4月、高知県を旅して、土佐の全16か所のうち、15か所巡りをしてから早3年、やり残したことを今回急に思いだし、旅に出た。実はこの数年、「残り」を実現するのにいろいろ苦慮していたが、たまたま今年の4月号の「ジパング倶楽部」をめくっていたら、JR四国がPRしている、「日帰りバス」による巡礼のツアーがあることを発見し、時期といい、旅行代金といい、当方にとって最善の企画であったので、すぐに申し込んだ。広島での義母の一周忌とも時期的にうまくマッチして、巡礼のあと、6月3日の法事に行くこともできた。

今回の巡礼の旅は、四国の各県(国)の「八十八か所」を駅を基点に日帰りでめぐるもので、伊予の国全26か所のうち21か所と讃岐の24か所、計45か所を6日間でめぐった。
なにせその数45寺、本堂と太子堂がそれぞれペアーなっており、皆同じような格好をしているので、ごちゃ混ぜになって、振り返ってお寺の名前とイメージがほとんど一致しないが、印象に残ったお寺について、後述したい。日程とお寺の名前を列記する。

5月26日(晴れ)
松山駅〜岩屋寺(45)〜大宝寺(44)〜浄瑠璃寺(46)〜八坂寺(47)〜西林寺(48)〜松山駅

5月27日(くもり)
松山駅〜浄土寺(49)〜繁多寺(50)〜石手寺(51)〜太山寺(52)〜円明寺(53)〜

延命寺(54)〜泰山寺(56)〜南光坊(55)〜今治駅

5月28日(くもり)
今治駅〜栄福寺(57)〜仙遊寺(58)〜国分寺(59)〜香園寺(61)〜横峰寺(60)〜

宝寿寺(62)〜吉祥寺(63)〜前神寺(64)〜伊予西条駅〜川之江駅  (以上21)

5月29日(くもり)
川之江駅〜三角寺(65)〜雲辺寺(66)〜大興寺(67)〜神恵院(68)〜観音寺(69)〜

本山寺(70)〜弥谷字(71)〜多度津駅

5月30日(くもり)
多度津駅〜道隆寺(77)〜金倉寺(76)〜出釈迦寺(73)〜曼荼羅寺(72)〜甲山寺(74)〜

善通寺(75)〜郷照寺(78)〜天皇寺(79)〜白峯寺(81)〜根香寺(82)〜高松駅

5月31日(くもり一時雨)
高松駅〜国分寺(80)〜一宮寺(83)〜屋島寺(84)〜八栗寺(85)〜志度寺(86)〜

長尾寺(87)〜大窪寺(88)〜高松駅      (以上24)

岩屋寺(45):真言宗豊山派
最初の巡礼地ということもあり、また、石鎚山の麓、面河渓の入り口にあると言うことだけでも、なにか、緊張させられた。県道から遥か高みにそびえる岩の間にその寺はあった。本堂は岩に抱かれるように立ち、洞内には三体の仏さまが祭られていた。真っ暗な洞内をろうそくを頼りに歩く。
山道を高さ50Mほどを登らねばならず、前日、松山城巡りをして、準備体操をしていたとはいえ、日頃歩くのをサボっているわが身には辛かった。

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横峯寺(60):真言宗御室派
石鎚山の北に位置し標高約700Mに位置する。シャクナゲの名所とのことだったが、花はすでに完全に散っていた。売店のお嬢さんに絵ハガキを求めたが、売ってないという。残念がる私に、良かったらと言って自分で撮ったという写真を下さった。「おもてなし」の思わぬ心遣いに感激。
シャクナゲはここより約200M高い雲辺寺(66)では咲いていた。その季節、シャクナゲを見にまた訪ねようか。その時は親切なお嬢さん?はもういないだろうなー。

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このようなシャクナゲの大群落は見たことがない(横峯寺)

雲辺寺(66):真言宗御室派
バスから降りてロープウエーに乗り継ぎ標高約900Mまで登ったところにこの寺はある。所在は三好郡池田町。県境にあるが徳島県に属する。八十八か所巡りの最高所。文明の利器の恩恵に被り、簡単に登ってきたが、昔の人、否、現代でも「歩き遍路の人」はどのような苦労があることだろう。

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山上の境内はきれいに掃き清められていた(雲辺寺)

根香寺(82):天台宗(真言宗ではない)
高松は霧が良く発生するとかで、高松空港もこの霧に悩まされている。そういえば、宇高連絡船の事故もこの霧のせいだったと記憶する。連絡船の事故をきっかけに、「本四架橋」の構想が起き、今や「瀬戸大橋」となって30年が過ぎた。全山、霧に覆われた寺で「般若心経」の読経が響き渡った。そこで一句。

「澄とおる 般若心経 霧の峯」

遍路姿もせず、ただの「観光人」の私ではあったが、信仰深い皆さんと一緒に般若心経を唱えてるうちに、少しはうまくなったようだ。

屋島寺(84)
源平合戦の舞台の一つ、屋島にあるこの寺はなぜか狸の像が立っていた。それよりも、古戦場の景色が寺に行く途中で見下ろせた。一の谷で敗れた平家は、なぜ、背後が山となった屋島の入り江に陣を貼ったのだろうか。背後に山があれば攻められにくいと思ったのだろうか。地続きと
なったこの島のとある場所に「壇の浦」とあるのは、何かを予見させるようで「哀しい」。
   (6月11日 記)
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2018/5/15

HARU去りぬ  日記
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5月12日に、HARU君は、迎えに来てくれたお父さんと一緒に、帰っていきました。約10日間の帰省でしたので、ママには少しは休養になったことでしょう。その代わり、ジジババはHARU君の世話で少し疲れました。HARU君は「おっぱい」とミルクをガンガン飲んで、ふっくらとなり、すっかり「赤ちゃんぽく」なりました。薄目を開けて、当たりの様子を窺うさまは、もう一人前です。赤ちゃん用具を片付けて、今日からまた元の生活に戻ります。    

ミルクやり ウンチバスター 寝かせ付け ” HARU の 名残を いかにとやせん”(笑い)

                           (5月14日記)

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2018/5/14

HARUが来た  日記
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HARUは3200グラムを超えました

5月3日からHARUが我が家に来てくれました。生まれた時からの急速な体重増加は、やっと16日の早生まれ分の体重を「人並に」してくれています。大きな鳴き声や、思い切った背伸びが、目を見張るような「成長」の証です。毎日が休日とは言え、ジジババにとってはこの連休中はHARUを中心とした幸せな毎日でした。首が座ったらバギーに載せて、近所の皆さんに自慢の「顔見世」です。
                  (5月8日記)
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2018/4/22

HARU君の誕生日  日記
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HARU君のお誕生の予定日は20日でしたが、16日ほど早く、産まれてきました。今や体重も2500グラム。顔や腕もふっくらしてきました。バア婆は連日HARU君のお母さんの手伝いです。お父さんもHARU君のことを大事にしてくれ、仕事が終わったら飛んで帰ってくれるそうです。(4月22日記)
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2018/4/10

HARU君誕生  日記
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4月4日、第二「孫(男)」誕生。体重は約2200グラムと小さめですが母子ともに至って元気。誕生後直ちに「保育器」に入ったため、出産当日は、会えませんでしたが、翌日(4/5)保育器から出てきたHARU君にすぐ近くで会えました。お父さんは少し恥ずかし気でしたが、しっかり育てていくと、宣言してくれました。お母さんは産後の疲れも見せず、本当に幸せそうでした。爺も生まれた時は、「丼茶碗」に入るぐらい小さかったそうですが、大きく育ちました。これから、爺もできるだけ長生きして、HARU 君の成長を見守っていきたいと思います。 (4月6日 記)
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2018/3/30

退職  日記
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感謝を込めて

本日をもって、妻が学童の仕事を辞める。約18年間、途中休職することもなく、正職として働いた。2001年、私が前の会社を辞め、短時間職員として働いていた頃、午前中の私の仕事に交代するように、午後から夕方まで学童で働いてくれた。私が早期退職の決意ができたのも、妻のお陰と思う。最初の勤務地は、幕張で、3年ほど長距離通勤したあと、この地区のルームに移り、3か所に勤務した。短大を卒業して、2年間ほど幼稚園の先生をやったように、根っからの子供好きなのだろう、不平は言いつつも、嬉々として働いていた。家に係る大きな出費、外壁工事、風呂、車庫、防音サッシなどは妻の収入に助けられた。なかでも、海外を含め、一緒に行く旅費はいつも折半で、年金生活者の亭主にとっては、随分たすかったものだ。
4月以降は二人とも無職であるが、早々に長女の出産を控え、妻は暫くは楽になれそうもない。従い「家事」の分担はこれまで通りとなるだろう。改めて、
「本当に長い間、ご苦労さん。そして、ありがとう。これからは二人で余生を大いに楽しもう。」
                           (3月30日 記)
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2018/3/22

広島の旅  日記
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干潮の鳥居(潮干狩りの人も交じって)

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満潮の鳥居

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宮島・大聖院の弥勒菩薩(写真はダマイ・ラマ)

日時:3月16日〜19日

空き家となった実家の掃除のために帰省するという妻に付いて、8カ月ぶりに広島を訪ねた。合わせて、3月いっぱいで会社を閉じた旧友のD君に会うために。D君とは広島支店勤務以来、約40年の付き合いである。百名山登山にも随分付き合ってもらった。彼は1991年、弱冠40歳で会社を辞め、個人経営の会社を立ち上げ、約25年間頑張って来た。話によると、古希を目の前にして、「見切り」を付けたとのことだった。何より聞きただしたかったことは、40年前に会社を辞めた経緯であった。今度、じゅっくり話を聞いて、改めて彼のパイオニア精神に感銘を受けた。「ベンチャー」と簡単に言うけれど、よくぞその一歩を若くして踏み出せれたものだと思う。これからはゆっくり、余生を送ってほしいと思うが、本人は全く違った分野、特に、子どもを相手とする奉仕活動をしたいと言っていた。是非何か良いボランティアの仕事を見つけてほしいと思う。
旅の最終日は、念願の宮島泊。宮島には何度も行ったが、島内で泊ったことはこれまで一度もなかった。今回、幸いにも国民宿舎がとれ、観光客の少ない、厳島神社の朝夕をゆっくりと楽しむことができた。あいにくの雨で弥山に上がることはできなかったが、西洋人でいっぱいの「大聖院」を訪ね、久しぶりにチベットの仏様と「砂曼荼羅」を楽しんだ。雨に濡れても健気に生きる野生の鹿と対話し、霧に包まれた宮島の風景を心に刻み、帰りのフェリーに乗った。
                         (3月22日 記)
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2018/3/8

ラオス・エピローグ  日記
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ラオス・タイ国境の橋

オーストラリアの支援によって作られた橋は川幅約200Mを跨いだ大きな橋である。橋の中央には国境の表示があり、両国の国旗が立っていた。国境部分約20Mは立ち入り禁止になっているが、監視する人が誰もいないので、進入禁止の柵を乗り越えて、その中心を確かめた。川は勿論メコン川。川岸に立つ家屋は両国の経済力の差を示しタイ側が立派。橋の真ん中にはレールが敷いてあるが、路面電車のレールと言ったところ。2時間に1本ほどの列車が往来するという。
メコン川は上流から大量の砂を運んできており泥の河であるが、ラオスでは良質の川砂を採集して、結構な商売になっている。橋に来る途中、「砂採り会社」のオーナーの立派な住宅を見た。

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「一帯一路」の橋

ラオスは社会主義の国である。中国の「一帯一路」戦略はここでも見受けられ、中国の建設会社が建造する巨大な橋が、メコン川に懸けられていた。
かつて、ベトナム戦争の頃、インドシナ半島の「ドミノ理論」と言うのがあった。ソ連、中国の共産政権が北ベトナムを支援し、南ベトナムと戦っていたころ、自由主義の盟主を自負するアメリカは、南を共産主義から絶対に侵略させない、もし、南ベトナムが北に侵略されれば、インドシナ半島全体が、ドミノ崩しのように「赤化」する。アメリカはそれを阻止するためベトナムで「大義」の戦争をしているのだ、というものだった。ベトナムが北に統一されたあと、ソ連が崩壊したものの、中国が急速に全世界に膨張している中、ラオスはその強烈は影響下にあると言われる。街中には、なぜか、ソ連の国旗がはためき、「社会主義」を標榜している様が見て取れた。メコンを跨ぐこの橋を通る道は、遠く、中国の雲南省に繋がり、多くの物資や人々が中国と行き来することになるのだろう。


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ラオスの民族衣装で結婚式の「前撮り」

「ラオスのお土産は?」と、プノンペンから飛行機で隣り合わせになったビエンチャン勤務のJAICAの女性に聞いたところ、暫く首をかしげておられた後、手作業で縫った刺繍を勧められ、妻は壁掛けになる絵を何点か買って帰った。私は、例の「ラオス焼酎」に加え、ラオスコーヒーを買った。その時もらった20ドルの紙幣に、はさみで切った後にセロテープで修理したものが紛れ込んでいた。帰途、慌ててルアンパバーンの街中で買ったコーヒ代18ドルに対し、小銭がなかったため、100ドル紙幣で払った当方の不覚であったが、ラオスの人には大金の20ドル紙幣をよく確かめずに受けとったわが身の不注意でもあった。旅行者へのアドバイス、汚れたり、破損した紙幣の釣銭は受け取るなという、基本を忘れていたのだ。案の定、ルアンパバーンのの空港売店で買おうとしたラオスのマップ代をこの紙幣で払おうとしたが、店員の鋭いチェックで、受け取りを拒否された。このまま、日本で銀行に持ち込もうと悩んでいたが、ハノイの空港レストランで食事をとった際、この紙幣を紛れ込ませ支払ったが、なんとも言われなかった。大量のドル紙幣を扱うハノイ空港売店と、そうでないルアンパバーンとの差かと、納得するやらほっとするやら。欠陥20ドル紙幣を受け取ったハノイの店員が、上司に怒られなければよいがと思いつつ、深夜のフライトに乗った。  (3月8日記)
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