創価学会は「指導制」である。
かつての所謂、指導部は廃止されたが、御書講義も決して教授法ではなくして指導法でなければならない。
御書と学会指導に依拠して指導は行われるべきである。
指導する者も指導を受ける者も、真剣で愚直で生命感溢れる熱血の渾身の指導の場が必要である。
指導する側は、もし間違った指導をすれば、自分が罰を受ける道理を知るべきだ。
また、指導を受ける側は、甘い激励をしてくれる幹部を探して指導を受けるようでは、己の成長はない。
その案件に関して、最も厳しい見解を持つ最も厳しい指導をする人間を、指導を受ける者は、逆に選ぶべきなのだ。
その厳しい指導を全身で受け止め、自分自身の錬磨と精進の受容に努めるべきなのだ。
指導は、指導を受ける者が進んで、指導を受けに行くべきものであり、厳しい意見を言ってくれる先輩に体当たりでぶつかって行くべきなのだ。
安易な指導の梯子をするべきではないのである。
進んで、厳しい指導を受ける潔い信心こそ、創価学会の魂であり、修業である。
そのよく忍ぶ姿勢、自らを戒める姿勢こそ、信心錬磨の最高の道場なのである。
弱い心で指導を受けてはならない。魔を断ち切る強靭な信心の魂の錬磨があって、初めて指導を受けるべきなのであり、厳しい指導を受け切る覚悟と勇気が必要なのだ。
指導を受ける時に、既にその人は勝っているのであり、戦っている者に指導はされるのである。
あくまで、自分自身の信心のチェックのための指導なのだ。
かつては、指導の場では、かならず御書が持参された。
御書の一節を読み開いての指導であるべきなのだ。
少なくとも、御書を持参する峻厳な精神を持って指導を受けるべきである。
指導を受けるとは、そういうものである。

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