1948年に上巻が、翌年に下巻が刊行され、その後1953年までの間、中学生と高校生の社会科教科書として使われた文部省著作教科書『民主主義』が、1冊にまとめられて径書房から出版されたのは、1995年でした。読んでみなければと思って買ったものの、ぱらぱらとめくっただけで、本棚の奥にずっと眠っていたのですが、今日取り出して読んでみたら、とても面白くて驚いてしまいました。
まだ読み始めたばかりですが、少しご紹介させてください。これから時々、少しずつご紹介させて頂きます。(明日は更新休みます。)
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第1章 民主主義の本質
<民主主義の根本精神>より
民主主義とは何かということを定義するのは、非常にむずかしい。しかし、その点をはっきりとつかんでおかないと、大きな食い違いが起る。民主主義を正しく学び、確実に実行すれば、繁栄と平和とがもたらされる。反対の場合には、人類の将来に戦争と破滅とが待っている。人類の住むところは、地球上のこの世界以外にはない。これを、生きとし生けるすべての人間にとっての住みよい、平和な、幸福な、1つの世界に築き上げて行くことができるか、あるいは逆に、これを憎しみと争いと死の恐怖とに満ちた、この世ながらの地獄にしてしまうかの分かれ道は、民主主義をほんとうに自分のものにするかどうかにある。ゆえに、大げさな言い方でもなんでもなく、民主主義は文字通り生か死かの問題である。平和と幸福を求める者は、何をおいても、まず民主主義の本質を正しく理解することに努めなければならない。
多くの人々は、民主主義とは単なる政治上の制度だと考えている。民主主義とは民主政治のことであり、それ以外の何ものでもないと思っている。しかし、政治の面からだけ見ていたのでは、民主主義をほんとうに理解することはできない。政治上の制度としての民主主義ももとよりたいせつであるが、それよりももっとたいせつなのは、民主主義の精神をつかむことである。なぜならば、民主主義の根本は、精神的な態度にほかならないからである。それでは、民主主義の根本精神はなんであろうか、それは、つまり、人間の尊重ということにほかならない。
人間が人間として自分自身を尊重し、互に他人を尊重しあうということは、政治上の問題や議員の候補者について賛成や反対の投票をするよりも、はるかにたいせつな民主主義の心構えである。
そういうと、人間が自分自身を尊重するのはあたりまえだ、と答える者があるかもしれない。しかし、これまでの日本では、どれだけ多くの人々が自分自身を卑しめ、ただ権力に屈従して暮らすことに甘んじて来たことであろうか、正しいと信ずることをも主張しえず、「無理が通れば道理引っ込む」と言い、「長いものには巻かれろ」と言って、泣き寝入りを続けてきたことであろうか。それは、自分自身を尊重しないというよりも、むしろ、自分自身を奴隷にしてはばからない態度である。人類を大きな不幸におとしいれる専制主義や独裁主義は、こういう民衆の態度をよいことにして、その上にのさばりかえるのである。だから、民主主義を体得するためにまず学ばなければならないのは、各人が自分自身の人格を尊重し、自らが正しいと考えるところの信念に忠実であるという精神なのである。(略)
このように、民主主義の本質は、常に変わることのない根本精神なのである。したがって、民主主義の本質について、中心的な問題となるのは、その外形がどの種類かということではなくて、そこにどの程度の精神が含まれているかということなのである。民主主義は、家庭の中にもあるし、学校にもあるし、工場にもある。社会生活にもあるし、経済生活にもあるし、政治生活にもある。しかし、どこまでそれがほんものの民主主義であるかが問題なのである。その程度をはかる計りのようなものがあるであろうか。
私どもは、合金の中に含まれている純金の分量をはかることができる。金とめっきとを見分けることができる。それと同じように、私どもは社会生活や経済生活や政治生活の中に含まれている民主主義の分量を、ある程度の正確さをもってはかることはできないものであろうか。金や銀の分量と違って、民主主義の本質は精神的なものであるから、それをはかることはもとより非常にむずかしい。しかし、民主主義の仮装をつけてのさばって来る独裁主義と、ほんものの民主主義とをはっきりと識別することは、きわめてたいせつである。いかにむずかしくても、できるだけそれをやってみなければならない。
<下から上への権威>より
民主主義の反対は独裁主義である。独裁主義は権威主義ともよばれる。なぜならば、独裁主義の下では、上に立っている者が権威を独占して、下にある人々を思うがままに動かすからである。国王や、独裁者や、支配者たちは、あるいは公然と、あるいは隠れて、事を決し、政策を定め、法律を作る。そうして一般の人々は、ことのよしあしにかかわらずそれに従う。その場合に、権威を独占している人間は、下の人たちにじょうずにお世辞を言ったり、これをおだてたり、時にはほめたたえたりするであろう。しかしその人たちはどこまでも臣民であり、臣下である。そうして臣下は、その主人の命令に、その気まぐれな意志にさえ、無条件に従わせられる。
だから独裁主義は、専制主義とか、全体主義とか、ファシズムとか、ナチズムとか、そのほかいろいろな形をとって現れるが、その間には根本の共通点がある。それは、権威を持っている人間が、普通一般の人々をけいべつし、見おろし、一般人の運命に対して少しも真剣な関心をいだかないという点である。(略)
現にそういうふうにして日本も無謀きわまる戦争を始め、その戦争は最も悲惨な敗北に終り、国民のすべてが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった。これからの日本では、そういうことは二度と再び起らないと思うかもしれない。しかし、そう言って安心していることはできない。独裁主義は、民主化されたはずの今後の日本にも、いつ、どこから忍びこんで来るかわからないのである。独裁政治を利用しようとする者は、今度はまたやり方を変えて、もっとじょうずになるだろう。
今度は、だれもが反対できない民主主義という一番美しい名まえを借りて、こうするのがみんなのためだと言って、人々をあやつろうとするだろう。弁舌でおだてたり、金力で誘惑したり、世の中をわざと混乱におとしいれ、その混乱に乗じてじょうずに宣伝したり、手を変え、品を変えて、自分たちの野望をなんとか物にしようとする者が出て来ないとは限らない。そういう野望を打ち破るにはどうしたらいいであろうか。
それを打ち破る方法は、ただ一つある。それは、国民のみんなが政治的に賢明になることである。人に言われて、その通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと、正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。民主主義は、「国民のための政治」であるが、何が、「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。
国民のひとりひとりが自分で考え、自分たちの意志で物事を決めて行く。もちろん、みんなの意見が一致することは、なかなか望めないから、その場合には多数の意見に従う。国民はみんな忙しい仕事を持っているから、自分たちがこれはと思う人を代表者に選んで、その代表者に政治をやらせる。しかし、あくまでも他人任せではなく、自分たちの信念が政治のうえに反映するように努める。そうすれば、ボスも、独裁者もはいりこむすきはない。(略)
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『民主主義』 文部省著作教科書 (径書房)