気のめいるニュースばかりなので、久しぶりに『星の王子さま』を開きました。
サンテグジュペリが「小さい人たち」に向けて書いたこの本に、私は残念ながら子ども時代に出会うことができなかったのですが、仏語を学び始めてまもなく、初めて原書で読んだ思い出深い作品なので、折にふれて読み返しています。
この本には好きな言葉が色々ありますが、中でもいちばん好きなのは、「目は見えないものなんだよ。だから心で探さなくちゃ」(拙訳: Les yeux sont aveugles. Il faut chercher avec le coeur )という王子様の言葉です。
形容詞 aveugle は、英語では blind です。文字通り、「見えない」という意味です。(そのまま英語にすると、The eyes are blind になります。)「見るためにある目が(実は)見えない」という一見矛盾した表現で、しかもとてもシンプルなのですが、この短い言葉は、目で見ているだけでは大事なこと(もの)は見えない、目を過信してはいけないという大切なことを教えてくれます。本当に言い得て妙と言うんでしょうか、年をとるにつれてますます、この言葉の奥深さを感じるようになりました。
学校に限らず、今は社会全体が、「目で見える価値」を追い求めているように思えます。
学力だけが全てではないといって努力を点数に置き換えるのも、「努力」という目に見えない価値を、目に見える数字にして納得したいという欲求の表れではないでしょうか。積極性や社会貢献の度合いなど、なんでも数字にすることで、生徒の人間としての価値を「測れる」ような錯覚を起こしているのだと思います。人間の価値が数字で測れないことは誰でも知っていることなのに、不可能を可能にしようと何でも数字に置き換えると、「数字」がすべてになってしまいます。
本当は、数字にできない(目に見えない)ところに価値があるのに、それが見えなくなってしまう。もう探す必要がなくなってしまうんですね。一目でわかった方が便利ですから。そうなると、想像力を働かせる必要はなくなって、想像力そのものが弱くなってしまいます。
いつのまにか子どもたちは常に「数字で測られる」対象になってしまって、本当に悲しいことです。
昨日から、NHKのニュースでは、中国の反日デモの様子がトップで流されています。そのあとで、すぐ「中国政府はデモの原因が中国側にはないと言った」と続きます。これは確かに事実です。
大規模で過激なデモがあり、抗議した外相に対して、中国側は「デモの原因は日本政府の対応にある」と言いました。私は、どんな場合にも暴力には反対です。インタビューを受けた中国の男性が「デモは意見表明の方法として認めるが、過激なのは良くないね」と言っておられましたが、同感です。あのデモ隊のすぐそばで暮らしている日本の方たちはどんなに心細い思いをしておられることだろうか、被害を受けた方たちは本当にお気の毒だと思います。
けれども、町村外相が「日本の教科書検定は適正に行われている」と言った言葉には嘘があります。彼がそう信じているとしても、これは事実ではありません。「つくる会」教科書をめぐり、確かに不正が行われたことは新聞でも報道されています。さらに、この教科書の内容が過去の史実を著しくゆがめていることも事実です。どのくらいひどいかということについての報道はありませんが。小泉首相は「靖国参拝とデモは別問題だ」と言っているそうですが、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050411-00000370-jij-pol私はそうは思いません。
こうしたことがニュースでつながりとして流されず、インパクトのあるデモの画面が流されて中国の表明だけが続くと、「悪いのはすべて中国」というイメージを与えます。
今朝のNHKでは、このニュースの後、何か別のニュースをはさんで、憲法改正についての世論調査の結果が出ていました。憲法を変える必要がないと答えたのは、わずか16パーセントだったそうです。私の身近な人たちはみんな憲法を守りたいと思っているので、この数字にぎょっとしてしまいました。憲法を変えたいと思っている人の中には、9条は守りたいけれど首相を直接選ぶために変えたいという人も含まれるようでしたが、いずれにしても、こんなふうに「うまく」ニュースが流されると、ますます「もう時代が変わったんだから憲法を変えなくちゃ」という人たちが増えてしまうのではないかと気がかりです。
大切なことを見失わず、流れに飲み込まれないように、しっかり想像力を働かせていなくてはと改めて思います。
内藤濯さんの翻訳で、さきほどの場面をご紹介させてください。とてもきれいに訳しておられます。
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「ぼくが汲んであげるよ。きみには重すぎるから」
ぼくはゆっくりと、つるべを井戸のふちまでひきあげました。そして、それを井戸がわに、ちゃんとおきました。ぼくの耳には、車のカラカラいう音が、ずっときこえているし、まだゆれている井戸水には、日の光が、キラキラとうつっていました。
「ぼく、その水がほしいな。のましてくれない?・・・」
ぼくは、王子さまがなにをさがしていたのか、わかりました。
ぼくは、つるべを、王子さまのくちびるに持ちあげました。すると、王子さまは、目をつぶったまま、ごくごくとのみました。お祝いの日のごちそうでもたべるように、うまかったのです。その水は、たべものとは、べつなものでした。星空の下を歩いたあとで、車がきしるのをききながら、ぼくの腕に力を入れて、汲みあげた水だったのです。だから、なにかおくりものでも受けるように、しみじみとうれしい水だったのです。ぼくは、ほんの子どもだったころ、ぼくのもらうクリスマスのおくりものも、クリスマス・ツリーにはロウソクが光っているし、真夜中のミサの音楽はきこえるし、人たちが春のようににっこりしているしするので、いよいよキラキラと目にうつりました。
「きみの住んでるとこの人たちったら、おなじ一つの庭で、バラの花を五千も作ってるけど、・・・自分たちがなにがほしいのか、わからずにいるんだ」と、王子さまがいいました。
「うん、わからずにいる・・・」と、ぼくは答えました。
「だけど、さがしてるものは、たった一つのバラの花のなかにだって、すこしの水にだって、あるんだがなあ・・・」
「そうだとも」と、ぼくは答えました。
すると、王子さまが、またつづけていいました。
「だけど、目では、なにも見えないよ。心でさがさないとね。」
ぼくは水をのんで、ほっとしました。夜明けの砂地は、蜜のような色になるものです。ぼくはその蜜のような色を、いい気もちになってながめていました。苦労するわけなんか、どこにもありませんでした。
『星の王子さま』サン=テグジュペリ 内藤濯 訳 (岩波書店)
Le Petit Prince (Antoine de Saint-Exupéry)