>「てめー、騙しやがったなー」なんて言う思いが少なからずの銃後の国民や帰国兵士が声を挙げていれば、日本国憲法に「天皇」の章はなかったであろうし、マスコミも一旦は解散させられていただろう。
ここを問わずにいた人たちも、問うことの出来なかった人たちも多いでしょうが、長い間ひそかに静かに問い続けた人たちもたくさんいたんじゃないでしょうか。。。義父は戦争について話すときいつも「とんでもない目に遭わされた」と言っていました。「えらいさん」がどんなに腰抜けだったかという話もたくさん聞きました。
「海の沈黙」についてドゥ・タイシさんが書いてくださったこと、今、実感しています。表立っては声にならなかったこういう「声」を私たちは祖父母や父母から受け継いで、今ここに決意を新たにしているような気がします。
>デモも、シュプレヒコールも、ビラも、学習も「戦争への道」も「触れ」ていないひとが、「触れ」ないだけの理由はそれぞれにある。そして私たちもそれぞれの伝達手段を持っている。
はい、一人一人、出発点に立つまでの道のりは違いますが、それは、それだけ多くの「方法」があるということ、可能性の拡がりを意味すると思います。
今から始めましょう。来年の夏、シンフォニーが美しく響くように!
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