文科省に強く抗議します。外間喜明さんの
「うちなー讃歌」から一部再掲させていただきます。
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防空壕を追われて ゼロ歳の僕の沖縄戦体験から
空襲も日増しに激しくなって、敵軍の沖縄上陸も近いと肌で直感した一家。小高い丘のような八重瀬嶽の中腹に掘った防空壕に、わずかな食料と衣類を持って移動した。防衛隊にとられた父が欠けた外間家は6人。潜んでいたそこにやってきた日本軍の兵隊3人。
「ここは陸戦隊が作戦上使う必要な壕だから、すぐ出て行くように!」
「これは軍命令だ。みんなも命令に従って出ている」と、厳しい口調が次々に。
「自分たちの壕なのに、なんで出なければいけないねー」最初こう言ったものの、
「貴様らは軍命令に逆らうのか!」と一喝されてしまった。
祖父が、一家を守る為にすがって頼んで、哀願を繰り返したが、とても聞き入れてもらえなかった。
「わたしたちは年寄りと女子供です。外に出されると、弾に当たって殺されてしまいます。どうか一緒に置いて助けてください。どんな協力でもします」
「ならん!軍命令だ!」「軍命令に従わなかったら、すぐ斬って捨てる」
3人の兵士からは更に厳しい口調。仕方なく、爆撃のない頃をみて、自分たちの壕を後にした。このむちゃくちゃな「壕提供」が沖縄の各地で展開されている。家族の身を守る為に、これを拒否して切り殺された人もいる。
隠れ場所を追われた一家は、玉城村堀川にたどり着いた。しかし、当てにしていた親戚は避難した後で、家も焼かれて隠れる場所はない。新たに防空壕を掘る余裕もない。思案した揚げ句、親戚の墓に行って、墓石を開けた。(中略)
墓の中は安全だが衛生状態は極めて悪い。当時の沖縄は土葬だった。一家が入った墓には、2年前に入れた遺体が腐乱しきって異臭が充満していた。遂に1週間で我慢の限界に。生後半年も経たない僕は、墓の中でも壕同様にいつも泣いていたらしい。3歳の兄もよく外に出ていたので、敵に発見されて一家全滅になるよりはと、移動することにした。
爆撃の合間に一家が向かったのは、チャンバカーモウにもう1つ掘ってあった自分たちの防空壕だった。着いてみると、数家族がぎっしり。「お互い様ですから」と譲り合い、狭いところに入れてもらった。しかし、またもや日本軍の兵隊がやってきた。今度は太刀(軍刀のことを母はこう表現した)を振り払い、問答無用の追い払われ方だった。急ぎそこを出るしかなかった。
「真栄平に行こう。そこの親戚に出会えば何とかなるだろう」
祖父の言葉に、一家は南部の真栄平に向かうことになるが、揃って出る余裕はなく、まず母が僕を背負って出た。
「先に行っているからね。をじぃをばぁとすぐ来てね」
これが、生きている兄に対する母の最後の言葉になった。
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兄の死 ゼロ歳の僕の沖縄戦体験から(前略)
兄の死について僕なりに考えてみた。病院とは名ばかりの何もない所で、母の着く前夜に、「水が飲みたい」と訴えた兄。叔母が桶から手探りで汲んで飲ませた。電気もない、遠くにランプのほのかな灯があるだけだ。明けて、息絶えた兄。桶の中には血や泥の水。何とか砲弾の中は生き延びたものの、きれいな水も飲めず、おいしいものも口にできずに、わずか3歳で逝った兄。戦争がもたらした悲劇、子を失った若い母の嘆き、いつまでも続く悲しみ。六十年経っても嗚咽なしには語れない母。その母を僕は直視できない。
沖縄戦での戦死者は、23万人を越えている。統計の上では、兄は戦闘協力者にも入る。日本軍への壕提供という理由からだ。充分な思考力のない3歳の子供が、その意志もないのに「戦闘協力」とは。あまりにも悲しすぎる、庶民にとっての沖縄戦。
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『うちなー讃歌』
外間喜明(ほかまきめい)

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