学生時代に出会い、これまでに最も多く読み返してきた大切な本。第2次世界大戦中、ナチス占領下のフランスで、対独抵抗運動に参加していたヴェルコールが地下出版した小説です。戦争の不条理を深く静かに訴える優れた掌編だと思います。
この本を取り上げて卒論を書く過程で、私は「レジスタンスの起こり得る社会とそうでない社会との違いは何か」という問いに導かれました。ナチス政権下のドイツにさえ、小さくとも組織的な抵抗運動があったのに、同時代の日本にそれがなかったのはなぜか。それはまた、いつか同じことが起きたら、私たちには抵抗運動ができるだろうかという問いかけでもありました。
「レジスタンスが起こり得る社会とそうでない社会」の違いについて、22歳の私が、それまでのわずかな経験から立てた仮説はこうでした。レジスタンスが起こりうる社会では、一人の人間の重みは常に「1」であり、それ以上にもそれ以下にもならない。人の重みというものが数式で表せるとすれば、2人いると1×2になり、3人いると1×3になり、100人いれば1×100になる。しかし、レジスタンスが起こり得ない社会では、常に全体が「1」になり、一人の人間の重みは、集まる人数に比例して小さくなる。一人でいるときに「1」の重みを持っていても、2人になると「2分の1」の重みになり、3人になると「3分の1」になり、100人になると「100分の1」になる。常に全体が1つの単位として機能するためには、人間の重みは限りなく小さくなり、個性は「100分の1」しか尊重されないし、責任は「100分の1」しか感じなくてすむ。
もうすでに戦争体験の風化が言われていた20年前、「学術論文とはとても呼べない」と評された拙い文章の最後に私が記したのは、学校で子どもたちが戦争についてきちんと学び、自分の頭で考える訓練をしなければ、将来に希望が持てないという感想めいた意見でした。
それからの20年、とりわけ、旧弊な町内会の残るこの町で暮らし始めてからの十数年は、若い日に立てた仮説の正しさを身をもって確認する日々でした。その中で、自分を失わずにいる方法を探す日々でもありました。そして、今、「いつか同じことが起きたら、私たちには抵抗運動ができるだろうか」という問いそのものを生きています。
10分程度で終わるはずの口頭試問で「考えるなんてことはエリートにしかできませんよ。この経済大国の日本の一体どこが不満なんですか」と言う教授と、「私が高校生の頃は、戦争の知識なんて当たり前にありましたよ。あなたはちょっと考えすぎなんじゃないですか」と言う助教授を相手に、1時間以上不毛な議論をする羽目になり、「大学の先生」という肩書きにわずかに残していた幻想を完全に打ち砕かれたことも、その後の人生を生きる上で、私の助けになりました。
この本との出会いは、色々な意味で、私の方向を定めてくれた気がします。
『海の沈黙 星への歩み』ヴェルコール 河野與一・加藤周一訳(岩波文庫)
癖のない文体なので、仏語学習者の方には原書もお勧めです。
Le silence de la mer (Vercors)