昨日テレビで、宮崎駿監督のベネチアでのインタビューを少しだけ見ました。
「これから世界がどうなるんだろうという絶望感と、新しく生まれてきた命を祝福しなければならないという気持ちのはざまで揺れている。これから私たちがどれくらい説得力のある映画をつくれるかが問われている」とおっしゃっていました。
4年前、9月11日のしばらくあとに、映画館で『千と千尋の神隠し』を見ました。宮崎さんのアニメは全部好きですが、いつもテーマがはっきりしているのに、この映画は、明確なテーマのない初めての作品のように思いました。それなのに、なぜだか涙があふれて困りました。
この映画は、見た人の年齢に応じていろんな楽しみ方があるのでしょうが、私には、「生きていること」がつまっているように感じられました。喜び、悲しみ、不安、怒り、祈り、希望、涙、笑い、勇気etc...
不動の命はなく、命あるすべてのものは絶えず動いて変わっていくこと、小さな子どもたちが、それと知らずに刻々と成長していること・・・あまりに多くの命が一度に奪われたあとに、命の力にあふれた映画を見て、胸の奥の深いところが癒されるようでした。
あれから4年が経って、私たちは明日、この国の行く末を選ぶ大きな岐路を迎えます。
4年前に私を含めて世界中の人々が打ちのめされた「多くの死」とは、比較にならない数の命が、この4年で奪われました。
明日、私は平和のために投票します。
多くの人たちが、私とおなじ思いで投票してくださることを心から祈っています。
久野収さんの『ファシズムの中の1930年代』(リブロポート)のあとがきから、少しご紹介させてください。この本は、1986年に出版されています。
「原爆投下と完全敗北と祖国占領を招きよせる愚挙の数々を無反省につみ重ねた日本の歴史と人間も、みんな、こぞって全力投球したのだから、賞揚こそされ批難するのは的はずれだ、むしろ批難する連中こそ、非日本人的だとの大きな声がまわりでやかましく聞える。そのただ中では、この書物も少しは積極的意味をもちうるのではないか。歴史と人間への愛がどれほど深かろうと、その間違いと錯誤ははっきり指摘されなければならぬ。でなければ、愛の盲目、愛の錯乱がくり返され、歴史と人間を破局につきおとすであろう。」