国民投票法案にしても、共謀罪にしてもそうですが、政府のやり方は、すごくアンフェアだと感じます。教科書問題もそうですよね。
いろんな考え方があるわけですから、意見の対立は当然出てきますが、どんな問題にしてもフェアなやり方で正々堂々と議論して、国民的議論もきちんとして、そのうえでどちらを選ぶのか、というのが本筋だと思うのですが、国民投票法案なんて、名前だけ聞くと、公正な国民投票のための決まりかと思ってしまいます。
一見、そう思える名前をつけて、よくわからない人にはそのままわからないままにさせておいて、実は、これが通ってしまうと、反対運動はできない、報道はできないということになって、結局憲法改悪へもっていくための法案だったのか、ということがわかる。
国民をだまして連れて行こう、みたいなずるさがすごくいやなのですが、いつからこういうずるさがあったのか、ということを、20年前の対談で、澤地久枝さん(1930年生まれ)と丸岡秀子さん(1903年生まれ)が話しておられるのを見つけました。
1987年『世界8月号』です。私は滅多に雑誌を買わないのですが、数日前本棚の隅でこれを見つけて、どうして買ったのかなと思って出してみました。盧溝橋50年という特集が組んでありますが、多分藤村信さんの『バルビイ裁判の中のフランス』が読みたくて買ったのだと思います。
めくってみたら、石垣さんが書いておられた江成常夫さんがグラビアに中国残留者の方たちの写真を載せておられて、「戦争の原罪」というエッセイも書いておられます。『中曽根政権下の日中』という山本剛士さんという方の記事には、まったく今の小泉政権について書いてあるのかと思うような文章が並んでいて、もう最悪だ、という感じなのですが、その中曽根氏でさえ、今では靖国問題では小泉首相よりよほどまともな判断をした、などと言われているのですから、この20年で、日本はどれほど悪くなってしまったのだろうと恐ろしくなります。
丸岡さんと澤地さんの対談は、「対談・語りつぐべきこと 生きて、たたかって」というタイトルで13ページに渡っています。
丸岡さんは、明治時代の「五カ条のご誓文」の翌日に出された「五榜の掲示」というものがあることを説明されています。少し抜き出しますと
「これは実は「五カ条のご誓文」のわずかの進歩性、”広く会議を興し、万機公論に決すべし”という国際社会向けのものさえ、歯止めを国民に対してはかけておくという意味のものだったと思うんです。「五カ条のご誓文」が出て、これで日本は開国して、広く開かれていく、いいなあと思わせておいて、翌日には5つの戒めを出すというやり方です。・・・」
「「旧来の陋習を破り」とか、「智識を世界に求め」とか言って、一見信教の自由をうたっているように見えますけれど、国民向けの拘束はひどいもんです。外国には、ひた隠しにして。官僚機構を通して、ひそかに取り締まるという仕掛け。だから、その存在をほとんど知らない人が多いはずです。「五榜の掲示」といっても、かなりの専門家の間でさえ知らない場合がありますもの。」
(ここから、憲法の問題などが出てきて、今につながる部分がありますので、少しご紹介させてください。)
澤地:こういうやり方は知能犯ですね。一般の人は読んでもわからないじゃないですか。平仮名も片仮名も読めない人が半分以上いるような時代にこんなもの出して・・・
丸岡:この「五榜の掲示」が「五カ条のご誓文」とセットになって翌日に出されたというのは、これは重大です。
澤地:「ご誓文」で一応は理想を掲げたのね。いいことをいってもいるんですよね。字義どおりとれば民主主義のようなことも言っているし。その裏側で儒教の道徳が出てくるわけですか。
丸岡:スパイも出てくるわけ。
澤地:ご褒美くれるんですものね。
丸岡:スパイ防止法も顔負けね。申し出ろ、密告しろ、そうしたら、褒美をやるぞ、というわけです。
澤地:しかも、みんなにわかって、いいか悪いか判断できるような形では出さないで、巧妙な嘘で出すか、むずかしい高級な言葉で出すか、というやり方。日本の歴史はいろいろといかがわしいですね。そしてくりかえし。
丸岡:そういう歴史を一生懸命勉強しておかなくてはね。
澤地:アメリカへ取材に行ったとき、ウィリアムズバーグ近くのある公立の建物で、アメリカ全州の州旗が立っているのを見ました。それぞれの根もとには「何年何月何日」に奴隷状態から離れて独立を宣言した」と刻んである。修学旅行みたいなものでおとずれた子供たちは、自分の州が奴隷の状態から自由へ向けて独立したという宣言をそこで見ることになる。
アメリカ人たちは、イギリスの植民地、奴隷状態から独立した日を刻まれた銘板と、はためく州旗に自らの原点を見出せるのでしょうが、日本はどうだろうかと考えて、とても鮮烈な印象が残りました。
私たちの過去は「自由か死か」というふうなことを圧倒的多数の人間が考え、それを争った独立戦争のような歴史を持たない。ないものを教えようといったって無理。じゃあ、どこへ戻っていくべきかといったら、憲法のほかにない、と思ったんです。あらゆる差別を禁止して、多年人類が求めてきた悲願ともいうべき基本的人権を認めた。侵すことのできない永久の権利として認め、しかも戦争と武力の行使を永久に放棄すると断じた憲法に。
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澤地:憲法に関しても、生き物としての本能的な反対みたいなものが実は大事だと思うんですが、戦後、女の凄まじいエネルギーと、それまで背負ってきた歴史の思いをつぶさに感じたのは母親大会です。
丸岡:あのときから、女の人は、かなり変わったと、言われますね。
澤地:コットン夫人が中心となって、1955年にスイスのローザンヌで世界母親大会を開きますね。その次は・・・?
丸岡:やらないですよ。
澤地:そうなんですか・・・・・。あの世界母親大会は日本の提唱で始まったと聞いてますけれど?
丸岡:そうです。準備会に平塚らいてうさんから「どうしても行け」と言われて私も加わっていたわけですけれども、それ以後開催されませんでした。
澤地:ジョセフ・コットンはキュリー夫人のお弟子さんですね。
丸岡:格調の高い演説をしました。ほんとうにすばらしかった。次の戦争を虞れ、それをちゃんと予見した上で、コットン夫人の視点は常にアジア・アフリカに向いていました。ここが立ち上がってくれないと駄目だといって、アジア・アフリカの人たちの発言をそれはそれは大事にしました。
澤地:女たち──その会では「母親」というわけですが──が平和のために果たす役割については、どういう話をされましたか。
丸岡:世界の母親たちはみんなで手を取り合おうということです。再び青年たちを戦場に送るまい、再び子供を亡くしたために涙を流すことをしまい、そういう呼びかけをしました。そしてみんな泣きましたね。・・・・(略)・・・
張りのある声は最後までおとろえず、それが終わったとたん、すべての人々は総立ちになりました。拍手は鳴り止まず、頬は感動の涙でぬれていました。
ナイジェリアの婦人だったと思いますが、「陸は、わたしたちの食糧を作るためのものであって、戦車を走らせるためのものではない。海はわたしたちの必要なものを運んでくれるもので、軍艦を浮かべるためのものではない」という演説を続けましたが、拍手はそれまで途切れなく鳴り止みませんでしたよ。
澤地:戦争体験がまだ生々しい時点で、国境を越えてみんな思いひとつになったわけですね。
丸岡:それでも、「いずれ来る」というんです。新しい戦争への準備が・・・。コットン夫人はそれを心から心配していました。
核とは言わなかったけれども、すでに頭の中にはあったと思いますよ。キュリー夫人の愛弟子だったわけだから。それだけに母親への訴えには、必死のものがありました。こんど戦争があれば勝者も敗者もない、人類の滅亡なのだからと。
師のキュリー夫人は、このことを身を挺して叫び、たたかいつづけましたが、そのことを「キュリー夫人の慟哭」(未来社刊)の中でも私はくりかえし紹介したんです。
澤地:私も日本の母親大会で受けた感銘は忘れられません。第2回でしたが、戦争によって愛する者を殺され、自分の人生を破壊された。その痛みがどれほど激しいか。マイクを奪いあうようにお母さんたちが語った。
「被害者としての告発だ」という醒めた見方もありうるかもしれないけれども・・・。みんな泣いている。発言者も傍聴者も泣いている。ラジオの取材者も、技術者も、新聞記者も、カメラマンも──みんな男性です──泣いているの。
あの光景は忘れられません。おさえようもない迫真力がありましたね。長いこと、心に閉じ込めていた思いが、あのとき堰切って溢れだしたという感じ。
丸岡:ほんとにそうです。それまで溢れさせる場所が全然なかったんですから。
澤地:話をしてみて、自分の痛みが実はみんなの痛みでもあったということがわかった。
丸岡:ほんとにそうですね。だから私、明子が亡くなったときに、友人の1人がくださった手紙の「あなたの個の痛みを普遍化してください」という一節を思いあわせたりもするんです。母親大会は個の痛みを普遍化する、そのチャンスを与えられたんです。
澤地:個の痛みのなかにだけいる限りは、そのことは実は何にも訳に立たないんですね。
丸岡:みんなの問題だ、と広げていかなければどうしようもないということです。
澤地:そうなんですね。だから「戦争は知らない」と今の人はいうけれども、いまあなたの恋人が交通事故で死んだ、あるいはガンの宣告を受けたとなれば、あなたは世の中をのろって、狂いたいほど悲しむだろう。愛する人間が戦争の中で死んで行ったとき、あなたと同じように痛み悲しんだ人のことを思ってくれたら、戦争がわからないはずないでしょう、って思う。
丸岡:ほんとうにそのとおりだと思いますね。その、個の普遍化をどうするかということですがね。
命とは一体何なのか、かけがえのない、再び生まれでない、その人だけのものだ。それは誰の手によっても奪われてはならないものです。その個の命をみんなで守ろうという、一人一人のお母さんの思いが普遍性を持つ契機に母親大会が役立てばと思うし、そのためには、やはり1人ひとりが自己確立に向って充実してこないと・・・
・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・
澤地:戦後初期、教研集会や母親大会に関わっていらした頃に、日本の将来、展望というものをお考えになったかと思いますが、今の状況と比較なさってどんなお気持ちですか。
丸岡:こんなにひどくなるとは思ってなかったですね。もう少し別な社会がくるのじゃないかと考えていました。だから、あの頃がなつかしい。ことに教研なんて、とても疲れたけれど、帰りには表現できない涙をこぼしあいました。
だけど、このごろは、この責任を誰にも転嫁できないという気がするのです。自分もそのなかの1人だったと思うと。そう思わなければこれから生きていけないし、闘っていけない、ひとごとじゃないですものね。
澤地:誰かのせいにしてしまうのは簡単だけど、それでは何にも生まれませんね。 (以下略)