以前ご紹介した1987年の「世界」8月号に、「病めるジャーナリズム──10月になったら竹下さん?政局報道の無為無策」というタイトルの匿名記者座談会が掲載されています。参加しておられるのは「CJの会」の記者5名です。この会は、「CJとは、Concerned Journalist(懸念するジャーナリスト)。政治、経済、社会各分野で急速に顕在化している「危うげな兆し」に強い懸念を抱くジャーナリストの会。自らの報道活動を問い切磋琢磨するため、新聞・通信・テレビの政治記者らで今年結成された」ものだそうです。
前回この記事を読んで、20年前すでにこの状態だったのなら、今の体たらくは当然か・・・とショックでした。ちょうどメディアの話題が出ましたので、ご紹介させて頂きます。小タイトル5つ(歌手的政治家像、毒は全体に及ぶ、新聞は選挙公報ではない、選択肢は一つや二つではない、ケモノ道にワナを張る)で、9ページ分ありますが、一部だけです。
------------------------------------
<毒は全体に及ぶ>
E 政治現象は最近、すべて映像中心になってきているね。それはシュミットが、サミットというのは政治ショーでだめになってきたと言ったというけれども、これはサミットだけではなくて、国内政治もまったく同じだと思う。朝から晩までドキュメントをやるなんていうことは、やめたほうがいい。
A それに答えるのに何があるかというと、権力に対する批判というか、まさに権力を監視していく、そこがいちばんのポイントだと思うんです。それをどういう形でやっていくのかというのがわれわれの課題だね。
そのためには、記者としてこれまで以上の問題意識で取材していくエネルギーがないと、そこの課題には答えられないんではないか。
D しかし、派閥記者という1つの取材システムのなかでは徹底的な自己規制がある。仲間同士で、何か変な発言したら、これはもうすぐに仲間はずれにする。
E 何か自分たちだけがその情報を特別に懇談で聞かされている、しかし、それを日々出してしまったんでは本人にも迷惑がかかるという一種のおもいやりのようなのが記者のほうにあってね。そのときに、あなたは政権構想がちっとも出てこないではないですかと聞く記者がかりにその中に1人いると、あいつはうるさいから、次の懇談のときは外して別席でやろう、そんなことが現に行われる。だんだんそういう記者はけむたがられて仲間外れにされていく、ということが現実の問題として起きていると思うんですよ。
B いやなことを聞くと、ほんとうのことをしゃべってくれない、これは常にそういうインナーサークルで取材していこうという記者の言うことですけれども、この論理というのはどこまでも際限なくいくわけで、結局、気にいっていただかないとほんとうのことを言ってくれない、こういう話になっちゃう。
そこで聞くほんとうのことというのはいったい何なんだと思う。ほんとうのことを聞いたとして、その記者はそれをどういうふうに報道するのか、そこのところへ絶対つながっていかないんだね。
A それは記者の側ばかりでなく、政治家も変わってきているんです。昔は、骨っぽい政治家がおって、あの記者はなかなか骨があるといって、親しくつきあってくれたけど、いまは政治家自身の骨がなくなっているから、そういう記者はどうしても忌避する。イエスマンの記者だけを周りにおいているというところがありますね。
C 類が友をよんで集まるわけですな。政治家が政治家だから、その政治家に見合った記者が・・・。
D 毒は全体に及ぶんですよ(笑)。問題は構造的なんです。
E 金丸なんて政局を動かすためにいろいろしゃべっている。ところが仲間内で、書くところをチェックしてしまう。ここはオフレコ、ここだけ書きましょう、と。報道規制を自分たち自身でしてしまうんですね。
D 後藤田なんかいつもいらいらしている。せっかく言ったのに書いてくれないっていって。
B 政治家のほうも、自らの番記者に不信感をもってしまう(笑)。
(略)
<新聞は選挙公報ではない>
A それではどういう報道の仕方があるかということを考えるわけですけれども、たとえば竹下というのは、総理総裁としての技量をもっているのかどうかという議論はずいぶんある。ところが、それが字面に現れてくる場面といったら、二階堂が竹下の人物批評をする程度のことしかない。
B 本当は竹下と宮沢と安倍、どいつが優れているのかということを新聞は問わなきゃいけないはずなんだ。しかし、新聞自体が問う基準を持っていない。何がいいのか、さっぱりわからなくなって、結局、数と金を集める竹下がいいんではないかというところへきてしまう。
A いま新聞がやっていることは、そういうときに公平にデータを読者に提供するということだけですよ。同じようにインタビューをするとか、同じように支持者、推薦者のコメントをもらうとかね。
D 選挙公報みたいな・・・。
A そこからは何のニュアンスも出てこない。ある種のバランス主義なんだけれども、こういうのがほんとうの報道といえるのかどうか。
E なぜジャーナリズムが現象だけで、もっと本質的なところへいかないかという問題だけど、報道される側は意図的に、1つのアクションを起こすとか、1つのことを言う。新聞記者のくせをよく呑み込んでいて、新聞記者がすぐ飛びつきそうな行動を起こしたり、言ったりする。
特に中曽根はそういうことに非常にたけた人だから、何か大事なことがあると、全然ちがうことを新聞記者にポッと言って、そっちにみんなの目を向けさせる。それを意識的にやられていることを見抜くかどうか、何か疑問をもちつつも、すっと捨象してしまうということがわれわれには、よくあるような気がする。
D しかし、それはどこかで担保されているんだよ。それでいいんだという保証がなきゃ、新聞記者だって、もう少し必死になるはずなんだから。それでその記者はけっこう評価され、地位安泰な何かがあるんではないですか。
E 竹下についてあまり突っ込みすぎはまずいぞというのがたしかにあるね。新聞社がみんなそうであるとは思えないけども、何社かはそうでしょう。記者自身もそういうふうになっている。
A 失礼かもしれんけど、何社に限らず、それは現実にあるとぼくは思う。へたに新聞記者精神なんか発揮して、時の権力にある人間を強い調子で批判していった場合、これは危なくなるというのはあるんですよ。
B だから本来であれば、権力の動向を監視するのが役目なんだけれども、逆にみんなが乗っているというのは、ある程度乗って、先物買いしていることが、何か現場記者の役目だと思っているところがある。
C テレビの場合だと、電波法というものがあって、いってみれば郵政省に首ねっこを抑えられている。だからなかなかお上に逆らうことはできにくいという事情が現実にある。新聞の場合には、それは比較的ないから、ある程度お上にさからったりすることができるはずだと僕らは思うんだけれども、いまは各新聞社がみんなテレビ局を持つようになった。
そうすると、新聞がテレビにおんぶする度合いが大きくなればなるほど、新聞自身がちょっと矛を収めて権力と適当に折れ合っていくという感じがでてきてしまう。そこにおいてもテレビが新聞に影響してきている。
D それはちょっとどころではなくて、おそらくそれがほとんどすべてではないですか。今後、ニューメディアだのなんだのというと、電波を制するやつが新聞界で生き残っていくという構図があるわけですよ。そこの利権構造がシステム化されているというのは、大変な問題だろうと思う。
A ただ、現場の記者全体にそう先走るなよということで趣旨徹底させているわけでもない。そこはなんとなく、以心伝心みたいなもので、ある種の物分りのよさがいつの間にか身についているようなところがる。
D 最近の若い記者は、非常にそれが敏感ですよね。
A それはよく言う生活保守主義的なものがわれわれの世界にも浸透してきているということだね。ただそのことをもってけしからんといっておると、時間が過ぎていくだけだよね(笑)。
確かに新聞は権力を批判するのが使命なんだ。当然のことなんだけれども、それを抽象論で本来、新聞というのは在野でなきゃいかんといって若いやつに説教しても、いまはだめだよ。
D 結局、彼らにとって何がいちばん信じられるかというと、利益なんだ。政治家の利益、新聞社の利益、利益になるものがいいんだというところに絞られていく。だからいまの一線の若い記者というのは、実によくその部分をワケ知りに知っている。
A われわれのほうが青臭くなっちゃう。政界というのは闘わなきゃいかんワケで、政治家には政敵が必ずいるわけだ。政敵と政敵を闘わせてやらすというのは、新聞の1つの政治的な役割であって、そそのかさなきゃいかんはずだ。そのそそのかしもしない。だからニューリーダーは3人ともものすごく仲がいい。お互いに相互批判も何もないから、本格的な争いになっていない。
B 闘争を悪とみるんですね。
D しみったれた闘争になっちゃう。それでてめえらは三角大福中の怨念だ、怨念だという。
A あのほうがよっぽどいいですよ。
(略)