昨日(3月10日)の朝日新聞朝刊15面に、「『厳罰』先行に不安 少年法改正案の国会提出」という見出しで大きく掲載された記事ですが、インターネット版が見つかりませんので、要約してご紹介させて頂きます。
まず改正案の骨子を、続いて二人の専門家の方のご意見をお伝えします。最後に少し私見を書かせていただきます。
今国会に提出された少年法改正案の骨子は下記のとおりです。
1)触法少年(刑法などに触れる行為をしたが、14歳未満で罪を問えない少年)や虞犯少年(罪を犯すおそれのある少年)について、警察の調査権限を明確化する。
2)触法少年の事件では、警察は押収や捜索、検証などの強制的な措置も取れる。
3)14歳未満も少年院に収容できる。
4)保護観察中に遵守事項に違反した場合は、少年院送致などの措置が取れる。
5)一定の重大事件で少年審判を受ける少年について、家庭裁判所が職権により国費で弁護士をつけることができる。
事件を起こした14歳未満の少年たちに関わってきた二人の専門家のご意見です。
<野田正人さん 立命館大産業社会学部教授
非行、いじめ、児童虐待などの心理と法律を視野に入れた司法福祉が専門>
改正法案は、これまでの「罪を問えない少年の事件は子どもの『福祉』の問題として児童相談所などが調査、対応する」という原則を転換するもので、危惧を感じる。その子の将来を考えるなら、背景に何があったのかを見ることが大切で、年齢の低い子どもにふだんから対応している福祉機関が担うべきだ。(略)
罪を犯すおそれのある(虞犯)少年を警察の調査対象にするのも疑問だ。虞犯のきっかけとなる家出などには、性的虐待など何かしらの理由がある。この流れが進むと、児童福祉全体が支えなければならない問題が大きく警察サイドに移ってしまうのではないか。
虐待など、子どもの育ちや環境の貧しさが非行という形で表れ、犯罪になる。しかし、いまは三位一体改革や地方分権の流れで、虐待や子育てについての対応は「地域の責任」として、人も金もない市町村に投げ下ろす一方で、その延長線上にある触法少年についてだけは「治安対策」として国が扱うという、ちぐはぐな構図になっている。根治療法とは逆方向だ。(略)
少年事件が凶悪化しているというイメージが先に立って、社会が「厳罰化」に動くことは怖い。安全な社会をつくるには、悪いことをする人間を「育てない」「つくらない」ことが重要だ。
非行や触法行為は結果でしかない。起こった犯罪への対応ばかりが議論になっているが、根っこやプロセスへの「みずやり」の大切さをもっと認識するべきだ。
<奥山真紀子さん 国立成育医療センターこころの診療部長
少年精神科医 子どもの精神保健、トラウマや虐待の問題のほか、被害者や加害者となった子どものこころの問題に取り組んできた>
警察は子どもを傷つけずに話を聞きだし、その内容から真実を見出すことができるだろうか。
子どもは「被暗示性」が強く、誘導的な質問に対して、大人が気に入るような答えをしがちだ。子どもの供述調書をみると、明らかに「こんなことを子どもが言うはずがない」という表現が盛り込まれていることがある。調書の内容は、警察が子どもの話を聴いて解釈したストーリーであり、逆に子どもがそれを理解したうえで調書に同意しているのか疑問だ。(略)
子どもは大人と違い、自分の権利を守ることができない。任意同行を求められたときに「弁護士を呼んでくれ」などとは言わないだろうし、どんな供述が不利益になるかの判断もおぼつかない。
改正法案は罪を犯す恐れのある(虞犯)少年も対象なので、ちょっとした家出でも「虞犯性の調査」として任意で供述を取ることができるし、友達も調べられる。警察の調査は「任意」だというが、子どもが任意で話したと、誰が、どう担保するのか。
警察の姿勢にも不安がある。警察は刑事事件として立件できるかどうかに関心が強く、その背景にある真実を探ることや、子どもを守ることに熱心ではないと感じる。多発骨折があるなど、虐待の疑いがある状況で乳児が死亡しても、刑事事件にできないとわかると、児童相談所に連絡もしないことが多い。その子のきょうだいの安全確保や背景の解明という視点が感じられない。(以下略)
14歳未満を少年院に収容することに関しては、野田さんはいまの児童福祉の体制の不備から一定の理解を示しつつ、「発達段階に応じた個別処理が必要」と言っておられます。奥山さんは「『児童自立支援施設で対応できないから少年院で』という発想は疑問だ。福祉と矯正教育が双方の利点と欠点を認識した上で、協力して新たな対応を検討すべき」とのご意見です。
専門家でない私は、かつて子どもであった者として、この法案に反対です。誰でも知っていることですが、子どもは一人では大きくなれません。生まれ落ちると同時に大人がつくってきた社会で生きることを定められ、大人の手によって育てられます。直接間接に、大人たちの影響を受け続けて成長する子どもが、たった14歳で「事件を起こす」としたら、それは大人の責任以外の何物でもありません。子どもは大人のように自分をうまくごまかして表面上の生活を取り繕うことができないのですから、外に大きな問題として表れてくるまでに、小さな胸にどれほどの苦しみを受けなければならなかったか、まずそのことを私たち大人は真剣に考えなければならないと思います。
植物がうまく育たないときは、日当たりや水やりや肥料の与え方を反省します。それらすべてに問題がない場合には、土そのものを取り替えなければなりません。うまく育たない草木に向かって「どうしておまえはちゃんと育たないのだ。こらしめてやる」などと言う人はいません。子どもを草木にたとえれば、親や先生は、それを育てる人であり、社会は土です。私たちは、自分が直接ふれあうことのできる子どもに対しての対し方を考えるのと同時に、土である社会のどこに問題があるかを探さなくてはならないのだと思います。
教育基本法に関してもそうですが、今、子どもたちに関する法律を変えようと画策する人たちは、自分を省みることなく草木を責める愚か者と同じ
ことをしているように思えて仕方ありません。