<兄への最後の便り>昭和20年5月30日
お手紙拝見しました。
きていただくということ、お志しはありがたいのですが、私はあまりお目にかかりたくないのです。
これはなにも、遠路はるばるきていただくのがお気の毒というわけで、こう言うのではありません。
ほんとうのところ、いまのまま、なんのつながりもなく、一人で生活しうることを幸福に思い、また、たのしく思います。
それだけで、もう充分ではないですか。
我々が語り合ったような局面が、日に日に現実となり、再建は、また我々が充分に語りあったような、苦しい努力によってのみ可能でしょう。
我々はすでに、充分に話しあったわけではないですか。これ以上、なにをつけ加える必要がありましょう。
我々がともに生活する段階はすぎました。
いずれの路にゆくとも、別れを悲しまず、いままた・・・・なにをか言わん。
終始、父親のように、私のために、ご苦労ばかりなされた兄さんに、いま、こういうことをいうのは、あまりにも申訳ない言い方ですが、いまの私の感情がおもむくままを申し上げるのですから、なにとぞ、この点、御賢察の上、お許しくださいますよう、お願いします。
予期したものとはいえ、我々の予想が事実となるのは、さびしいですね。
追伸
毎日げんきでおります。
暇はないのですが、なにかのたのしみと、やり残しの不愉快さのために、気にかかるホグベン『百万人の数学』(原書)を至急にお送り願います。
戦局ますます苛酷、いまとなってはなにを言挙する必要もなし。ただやらんかな。
・・・・・・・ホグベン、いや、いりません。むだです。これは不要。
ではまた
尹夫
兄上様
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<回想に生きる林尹夫>より一部抜粋
(兄)林克也
1945年3月、私は病気療養と戦後の活動に備えて松本に転地した。そうしないと原子爆弾か殺人光線の軍事研究要員として徴用される可能性が出たためである。
5月下旬、とつぜん美保基地近在の未知の人から美保にくるようにと手紙が届いた。私はためらった。もし弟の心情に動揺を感じさせて危険なことが生じてはならぬと思ったからである。つづいて弟は、「こなくてもいい」(最後の便り参照)と言ってきた。これが逆に作用した。そして6月8日から12日まで美保基地の彼の宿舎で過した。島田時代に家にきた13期と14期の顔見知りの士官たちが集って盛大な宴会もやってくれた。
このあと数回、兄弟二人して夜になると夜見ヶ浜の海岸で語りあった。弟は島田時代にわたくしが極秘に持っていたレーニンの『国家と革命』を欲しがっていた。国禁の書である。ずいぶんためらったが、ついに弟にわたした。彼は一枚ずつ千切って便所のなかで読み、細かく切り刻んで捨てるか、ばあいによっては食べてしまったと笑って話した。
2人はここで率直に日本とアジア、そして世界を論じあった。もはや思い残すことのないようにと考えて討論をした。私はここで言った。「死んではだめだ。俺は死んではならぬと決心して行動してくれ」と。
弟は「もうぜんぶ終ったのだ。だめだよ兄さん」と答え、いきなり優しく、きつく私を抱きしめた。おたがいに涙こそ一滴もこぼさなかったが、これほど切ない思いで一瞬を過したことは、かつて2人の間でなかったことである。
兄弟が、大人としての愛情を感じあったのはこのときである。弟は「本当は会いたかったのだ。でもね、ぼくは兄さんに会うのがいちばんこわかったんだ。本当に長い長い間、すまなかった」と言った。
これが2人の永別だった。翌朝はやく弟は哨戒飛行にでかけた。私は一人で支度して信州に戻った。
弟の戦死を伝えてくれたのは佐竹氏だった。8月30日夕に疎開先の山奥の家に電報が届いた。眼が暗くなる思い、妻が声をのんで泣いた。母にはしばらく黙っていようと決心した。このショックで一ヶ月以上はやく、その晩に妻に陣痛が起った。次女の出生である。医師と産婆は疎開し、電話は通じない。妻と胎児の生命はわたくしの処置と自信にかかっていた。そこで難産の事前処置をとった。戦時下、内地と戦場の区別なく、内科と一寸した外科の真似ごとぐらいできるように準備しておいたのが役にたった。難産だったが、そのあとの後産が出てこない。放っておけば重大事であり、無理をすれば死である。私は妻に告げた。「生死はぼくの手中にある。」
わたくしは全神経を指先一本に集中し、一寸刻み五分刻みの息づかいで胎盤の引きだしにかかった。次女の出生は午前2時過ぎだったが、胎盤を完全にとりだすまで4時間かかった。完全に消毒をすませ、赤子が乳を吸いだしたとき、私の意識はもうろうとしてきた。弟の死の通知、新しい生命の誕生、この急激かつ深刻な生死の転換に、私は耐えぬいた。梓川の河原に朝霧がたちこめて、樹の姿がとけるように包まれるのをかすかに意識しながら、わたくしは疲れはてて眠った。それは眠っても眠っても、天地が逆転しつづけているような睡眠だった。
目があいても弟の死という痛みはなかった。生と死の同時的な訪れに、私の精神は疲れきっていた。
母は弟の死を知ると、枯れるように衰弱して翌年の2月16日、眠りながら死んだ。
私は村の塾の弟子たちに助けられて板を割り棺をつくり、薪を火葬場に運び込んだ。吹雪のなか、一人で薪に火をつけた。深夜独り母を焼きつづけた。
弟は髪や爪は残したくない。戒名などやめてくれと言った。「ぼくはやっぱり林尹夫さ」と。わたくしはそれを現在も守っている。私はその後も信州の山野を歩きつづけ、農業問題の勉強をしながら青年男女の指導にあたった。
朝鮮戦争がはじまったので7年ぶりに帰京した。この頃から弟が恋しかった。4〜5年というもの弟への愛惜の想いで眼がさめ、深夜独り声をあげて泣いた。忘れるために酒をのんだがそれが悲しみを深めた。それから平静に回想することができた。
(1967年1月15日、之を記す)
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『わがいのち月明に燃ゆ』 林尹夫 筑摩叢書