鞆軽便鉄道(57)
やっと草戸稲荷駅まで戻ってきました。随分長かった。事の発端はホーコスの自転車置き場の辺りに目星をつけて(新線の)草戸稲荷駅を探していた時です。草戸大橋の上手を指差して、土手を斜めに上がっていたという人が複数いたのです。そのときはバス路線と勘違いしているのだと思って取り合いませんでした。その後、何種類も信頼に足る地図を見て、土手というのは中川の土手のことで、そこを通っていたのは旧線だということが分かってきました。
草戸大橋バス停から 三景

幸い洗谷で鉄橋跡が確認できたので、そこから逆戻りしてここまで來ました。
矢印のところにコンクリート柱に「建」の鉄プレートをつけた境界杭が埋まっていて頭だけが見えます。

川の中ですからその上を歩くわけに行かないので、並行して通っている鞆街道を建設省の境界杭などを見ながらぶらぶら遡って來たのでした。

何はともあれ、兎に角草戸駅です。川の中です。(銭取橋の橋脚が確認できて、草戸駅の位置が間違っていました。新しい写真に差し替えました)
そのうちこの辺りの景観は全く変わってしまいます。新しい立体交差の橋ができると周辺の人たちは立ち退きになります。国土交通省と県土木と民間の土地の境界もすべてチャラになって図面通りの新しい境界線が引かれることになります。
証拠となる地図も土地台帳も戦火に焼かれて資料は残っていません。戦前戦後の食糧難時代に土手の法面も耕され、官地と私有地の区別も曖昧になっていた場所も多々あります。
新堤防の築堤図面では草戸大橋、河口から6.650kmまでは堤防上の道路幅が7m、則面が水平距離で7.5m、中段の旧道が2m、そこから続きの則面が更に4mあることになっています。センターラインからの合計は17mですが、現状は全く違います。
水呑で畑をしていた方の話です。調査に來た建設省の職員に「どうやってこの土地(畑)を買われたんですか。私も買いたいな」と皮肉を言われたそうです。県土木から払い下げになったのも事実ですし、埋め立てた後、菜園を広げたり、庭を広げたりして私有地が進出した場所があるのも事実でしょう。
予算の取り方からすれば、旧堤の内側に新堤を築けば、旧堤を削り、川を浚渫し、その土砂を新堤に積み上げるのですから、設計図どおりの堤防を一から作るよりは、運搬から資材から、残土処理から人件費から、差益は莫大なものがあると思います。しかしそのために机上の図面で境界線を引かれ、行方不明の2m部分は、4m部分はどこへ行ったのか、いちいち疑われたり嫌味を言われたりでは堪りまりません。県土木が手を引いた後は資料もないまま曖昧な状態が続いていましたが、それらのいくつかは立ち退き移転で有耶無耶の内にチャラになってしまいます。特に草戸稲荷駅にまつわる周辺が何の痕跡もなくなるのはちょっと残念な気がします。
きっと新しい橋の真下になるはずです。(*草戸稲荷駅は大橋から40m程上で、流の中でした)私鉄の記念碑を何で国が作る義理があるのか。ご尤もではありますが、何らかのかたちでモニュメントを残せないかと期待はしております。〆(..)para1002n(ぱら仙人)


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