○引きずられた「悪夢」
2012年は、2011年の重苦しい「東京電力福島第一原発事故」の悪夢を引きずったまま、迎えることになった。
野田首相は昨年末原発事故の「収束宣言」を発したが、一方で原発では連日新たな「汚染水漏れ」が発生し、原子炉の中すら確認できていない。
野田によると原子炉は「冷温停止」したらしいが、肝心の核燃料の位置も、そこから漏れる汚染水も止めることはできていないのだ。
そう考えると、
この「宣言」はどんな安全も担保してはいない。私には、これまでの「原発神話」の続きにしか聞こえない。
○国民よりも米軍
そもそも、政府は原発事故が起きた際、税金で作った緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム「SPEEDI(スピーディ)」で得られた情報を、国民には23日まで隠していた。
しかし米軍にはすぐに伝え、米軍はすぐさま80キロ圏外へ退避してから風上で「トモダチ作戦」と称して水配りをしていた。
おかげで住民は避難先でもいらぬ被曝を強いられ、風上に逃げた米軍は被曝を最小限に抑えられた。
これは、
政府が「国民よりも米軍のほうが大事」と行動で示した何よりの証拠で、この事実に対して当時政府中枢の面々(菅や枝野)は言い逃れできないだろう。
これから国民は、政府にモノを尋ねるよりも米軍(あるいは米政府)に尋ねた方が早いかもしれない(「トモダチ」であれば親切に教えてくれることだろう)。
そして、これが情けないが我らが日本国の姿なのだ。
○追い込まれた原発労働者
昨年の10月、全国青年大集会の「原発労働者」分科会で、原発事故で駆り立てられる労働者の現場に潜入したジャーナリストから衝撃的な話を聞いた。
事故当時、原発労働者の被曝の基準が100ミリシーベルトの基準から250ミリシーベルトまでに拡大された。
私は、これがいくら緊急作業のためとはいえ、基準が拡大されたことで原発労働者には危険に身を投じる不安を与えてしまうだろうと考えていた。
しかし、潜入したジャーナリストは、原発労働者の「別の不安」を報告していた。
その「不安」とは、
「上限まで被曝してしまったら、その後仕事ができなくなる」という不安である。つまり、基準以上の被曝は、彼らにとっては即収入が無くなることを意味する。
現場の労働者は、健康被害よりも収入が無くなることを心配していたのだ。
私たちが当時「○ミリシーベルトはレントゲンと同じだ、CTスキャンと同じだ、だから健康の心配をするな」と繰り返し繰り返しマスコミで聞かされ続けていたこととは別次元の話がそこにはあった。
そこまで、原発労働者たちは追い込まれて仕事をしている。
○農漁民も
農民も同様だ。
彼らが「うつくしま」と誇っていた福島は相当程度に放射能汚染されてしまったにもかかわらず、政府は農民に農作業をさせた。
「収穫物の放射性物質量をチェックして基準を超えなければいい」と言って、政府が急遽定めた高い基準を押し付け、それ以下の農産物を「がんばろう日本」などというフレーズと共に売りに出させた。
そして、それらを進んで買わない人たちには「風評に惑わされるな」と言って非難した。
外から放射線を浴びる外部被曝と違い、体内で放射線をゼロ距離で浴び続ける内部被曝は、研究者によって人体への影響の見解が分かれるところだ。
しかも誰が決めたかも分からない政府の基準を「信じろ」といわれても、おいそれと信じる人はそうはいないだろう。
国民は、先に、多量の放射性物質を含んだ稲藁を食べた牛から取れた、国の放射性物質の基準すら超える牛肉が、市場に出回って消費されてからの政府の対応を見ている。
あの時、政府の対応は後手後手で、誰も責任をとる人がいないどころか、責任云々の話すら出なかった。いざとなってもこの程度のことしかしない軽い政府の言うことを、信じろといわれても無理がある、というのが正直なところだろう。
農作業を無理やりさせずに、補償をきちんとして別の場所へ避難させるなど方法はあるのだろうが、責任を取りたくない政府と東電にとっては、「風評に流されるな」というわけだ。そして、連中はこうした対応を今後も確実に続けてくるだろう。もちろん、福島県民以外でも問題は深刻だ。
漁民の置かれた状況も悲惨だ。
「汚染水漏れ」について、政府は当初「海に拡散されるので影響はない」と言っていたが、実際は海流とあわせて沿岸部の泥に放射性物質が溜まり、また、生物濃縮によって魚介類に放射性物質が溜まっている様子が研究者の報告で明らかになっている。
政府は未だ「影響はない」と言った見解を正していないが、これまた「責任は取りません」ということの裏返しだろう。買わない消費者が「風評被害」の影響を受けている悪者というわけだ。
○東電「無主物」の「お情け」
また、広大な地域が放射能に汚染されたことにより、当然、原発所有者の東京電力は責任を取るのか、という話になるわけだが、東京電力によると放射性物質は所有者のない「無主物」であり、東京電力には除染の責任はないという。東京地裁でもこの主張は認められた。
東電にとっては除染はあくまでも「お情け」で手伝ってやる、というわけだ。
これは一体何なのだろう。私たち国民は、完全に棄民にされている。
いざというときは、政府や東電は責任逃れしか考えていないのだ。
これは、残念ながら政府も、東電も、「国民のための政府・企業」ではない、ということを事実で示しているように思える。更に裁判所もまた、それに追随している。
○棄民の国
思えば、先の大戦時には満州に送られた民衆が国に棄てられ、沖縄県民も本土決戦の時間稼ぎに棄てられ、天皇をはじめ「国体」がポツダム宣言受諾を渋って、広島・長崎の民衆も棄てられ、いらぬ大空襲を受けた大阪などの民衆も棄てられた。
戦後も、水俣病などの公害など、いくらでも例はあるだろう。
・・・この国は棄民の国というわけだ。今更ながらこう述べてくると歴史に明らかであり、驚くにも値しないことではあるが、震災を通してこの事実が国民へ赤裸々に示されている。
○つくられる「一体感」は棄民の温床だ
しかし、連日のマスコミ報道は、相も変わらず政治屋連中の発する無内容な「がんばろう日本」などの「一体感」を強調するメッセージばかり発し続けている。
彼らの好きな「絆」という言葉も、
結局は誰も責任を取らず、取らせず、棄てられた人たちに無理やり「一体感」を強制するものだ(もはや泥舟と化しつつある民主党を抜け出して「きずな」などという政党を作った連中がいたのには呆れた。彼らは税金山分け・政党助成金を目当てに年始の駆け込みで政党を作った。挙句に名付けたのがこの名前である。厚顔無恥のうえに国民を愚弄する税金泥棒という彼らの本質を語っていないだろうか)。
震災で募金活動をしたり、ボランティアが頑張ったりすること、そのこと自体はまさに被災者たちと一体になって助けあう「絆」を感じさせるものだ。
ただ、それは人々それぞれの行動にあるのであって、政府・政党や東電の行動と一緒くたにできるものでは到底ない。毎年320億円もの政党助成金を懐に入れて飲み食いしている連中に語る資格はないだろう。
私腹を肥やし、責任逃れをすることしか脳のない連中との「一体感」など、「絆」という言葉を貶めるだけだ。
メッセージの垂れ流しほど愚かな言葉の使い方はない。マスコミの連中は言葉を扱う職業者として恥ずかしいことと思わないのだろうか。
これもまた、棄民を作り出す温床としかならないだろう。

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