○あれから2ヶ月
JR宝塚線の運転が再開した。人為的な条件が重なって脱線し、107名の死者がでるという大惨事がおきてからはや2ヶ月が経過し、世間もこの問題ではもう騒がなくなっている。結局、この問題では、JR西の「体質」が問題にされ、事故がおきてもボウリング大会や宴会をしていたことが批判の的となった。記者会見では声を荒げる記者たちに無表情のJR西の幹部が淡々と答えていた姿が印象に残った。
事件後、JR西の駅員が暴行を受けるなどしてニュースにもなっていた。
だが、この問題をその場しのぎのJR西バッシングで終わってしまってはならない。そんなことで終わってしまったらまた、この問題は繰り返されるだろう。
ここでは、一つの視角からこの問題について考えてみたい。
○国鉄解体(=JR誕生)の過程
JRはもともと、1987年に国鉄を解体し、分割民営化してできた会社である。分割の過程で、多くの労働者が引き裂かれ、差別を受け、首切りをされていったのをご存知だろうか?
当時(1980年代前半)の労働運動の中核であり、闘争的な労働運動をしていた国鉄労働組合(国労)をつぶし、国民の財産である国鉄を切り売りし、さらに国鉄経営で生まれた借金を国民に転化させるために、当時の中曽根内閣は国鉄の解体を決定した。
国鉄解体当時の国労組合員への差別は激しく、「人材活用センター」という名の収容所に閉じ込められ、150人を越える自殺者を出し、1047名の首切りが行われた。
「人材活用センター」では、狭い部屋に机を並べて、一日中仕事も与えられずに座らされ続け、草むしりをやらされるなど、組合員は、運転や技術労働、保線などの本来の仕事とはまったくかけ離れた「仕事」を強制させられ続けた。
また、それだけでなく、多くの国労組合員をはじめとする労働者を配置転換し、本来業務とは関係のない売店や掃除などの仕事をさせた。
この過程で、30万人近い国鉄職員が10万人近く減らされたというから驚きである。
「ところが、えてして一人でも人が減ると安全性が下がるというデマを飛ばす人たちもいます。これは、他の目的のため安全性をたてに使っているキャンペーンなんですね。・・・むしろ新しい技術を入れ、しかも意欲の高い社員がいれば、少ない人手でやったほうが安全性ははるかに高まるというのが、あらゆる産業の常識ですね」(当時の山内JR東日本副社長の談話『交通新聞』87年12月24日)
この副社長の談話がただの一般論で、現実のJRにはまったく結びついていなかったということは今度の事故で明らかになった。
国鉄解体の過程で、いかに有能な人達(ベテラン)が減らされたか、7月号の『世界』(「惨事はなぜ起こったか」)野田論文は述べている。
「国鉄解体によって、JRは多数の中堅乗務員を追放し、経験の継承ができないようにした。新卒採用を控え、歳月を経てさらに中堅層が減ったJR西日本は、急遽、若い車掌達を運転士に採用した。「動力車操縦者運転免許」は国家資格となっているが、国土交通省は試験を各社に任せてきた。規制緩和のスローガンのもと、公共の運輸もそれぞれの民営企業が責任をとればよいと考えたのであろう。国家資格の形は残しながら、企業に任せてきたのである。高見運転士(23歳)もこうして仕事についた」
朝のホームにはただ人を電車に詰め込むだけの責任のないバイト駅員がわんさといて、運転士は企業任せの試験をパスしたての若者。しかもオーバーランを起こすと「日勤教育」という精神的拷問を受けさせるのだから、副社長の述べた「意欲の高い社員がいれば、少ない人手でやったほうが安全性ははるかに高まる」という言葉はもはや皮肉にしか聞こえない。
金儲け第一主義をつらぬき、労働者の引き締めをはかるあまり、「あらゆる産業の常識」を自ら破壊したJRの責任は、この意味で重く、ここに単なるJR西バッシングでは到底解決できない根の深い問題があるのである。
○ものいう人間集団を
こうした視角から今回の問題を捉えると、結局、政府も財界も職場でものいえぬ労使関係をつくることにあまりにも邁進してきたがために、そして私たち自身があまりにもそのことに慣らされてきたがために、この惨事が起きてしまった一面があるということになる。
国鉄解体以後、労働組合運動は衰退の一途をたどり、ストライキといえばプロ野球選手しか思い浮かばない時代になってしまった。最大のナショナルセンター「連合」のメーデーは、メーデー(5月1日)には行われず、要求を持ち寄ってアピールするのではなく、お茶を濁すような余興をこなすことに専念している。
結局、個々の労働者は不満を吐き出せず、毎年2万4千人もが自殺し、職場環境や過労のためにその何十倍もの人間が抑うつ状態になってしまっている。
私達は、こうした時代の中で生きている。時代は正に、私達労働者にとって袋小路、閉塞状況にあるといっていい。しかし、こういう時だからこそ、私達は状況を正しく認識し、「ものいわぬ羊」ではなく、「ものいう人間集団」をめざすべきではないだろうか。
いまや、「ものいえぬ職場」は当然である。しかし、例えば、探してみれば一人から入れる労働組合(一般労働組合という形式)というものもある。「自分を助けるのは自分だけ」という考えは時代の流れかもしれないが、そうした考えで閉じこもっていては、閉塞状況は突破できず、残念ながら数%の「勝ち組み」を名乗る人しか救われないのである。
今回の事故から導き出す最大の教訓は、私はこの「ものいう人間集団」不在にあると考える。それは、何もJRだけの問題ではない。

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