「日本平和大会in沖縄A〜チビチリガマとシムクガマ」
戦争と平和
○悲劇のチビチリガマ
前回、糸数アブチラガマの報告をしたが、すべてのガマで同じような悲劇がおきたわけではない。中には明暗を分けた事実も起こったガマもあった。
米軍が差し迫る1945年4月1日、読谷海岸から近いチビチリガマには、約140人の村人が避難していたという。
鬼畜米英、と教えられていた村民は、米兵に竹やりを持って抵抗しようとしたものの、反撃を受けてガマに戻った。
このままではどうなるかわからない、何をされるかわからない、と村人たちは怯え、布団に火をつけて自殺を図る者がでたり、母親は子供の頚動脈を切ったり、元看護婦が毒薬を注射するなどして、ガマは大混乱に陥り、80名以上が死亡することになった。
そして、その半数以上が15歳以下の子供や老人であったという。
チビチリガマはその後40年近く、ガマがあったのか分からない状態で荒れ果てていたが、その後、整備し、遺骸を荼毘に付して、平和学習等のために開放されたものの、いまだに残る遺骨が踏みしだかれるのが我慢ならない、と遺族の要望があり、その後入ることはできない。
ガマの前にはかつての悲劇を刻むべく、平和祈念像が置かれている。
○助かったシムクガマの人たち
一方、チビチリガマから約1キロ離れたシムクガマではこうした悲劇は起きなかった。
このガマはチビチリガマより広く、1,000人もの村人が避難していた。
その中に、比嘉平三さんと比嘉平治さんというハワイからの移民帰りのおじいさんがいたことが幸いた。2人は米兵と交渉し、村民には「米軍は武器を持たない民間人は殺さない」と説得し、その結果、村人は収容所に入ることができた。
当然、逃げた村人はチビチリガマと同様、鬼畜米英と教えられていた人たちには違いなく、激論が起こったものの、ほとんどの人が説得に応じて、「自決」を図る人はでなかったという。
もちろん、このガマでも説得に応じきれず、残った人もいたようだが、その後、投降して無事であったという。
○正しい情報の大切さと感覚
この二つの対照的なガマから、正しい情報の大切さ、狂気の中でも落ち着いて考えることの大事さ、つまり「鬼畜米英」であっても同じ人間だ、という感覚を失わずに行動することの大切さを知ることができるような気がする。
チビチリガマでも死ぬか、助かるかの議論はあった、とのことだが、残念ながら、正しい情報を伝える比嘉さんのような人がいなかった。そして、そうこう言っているうちに大混乱に陥ってしまったのである。
○歴史に学び、権力の現実に向き合う
当時の狂気からくる悲劇を繰り返してはならないし、そのためにはその狂気を作り出した当時の教育の恐るべき力を忘れるべきではない。
今また、あることを無いと言い、悲劇の証人達を深く傷つけている権力の現実から目を背けるわけには行かないだろう。
次回へ続きます。
参考資料 平和のためのガイドブック 「沖縄の戦跡と軍事基地」(かりゆし出版企画)
チビチリガマの入り口。入り口は千羽鶴であふれ、中は未だに遺骨が残されているという
チビチリガマの入り口にある平和祈念像。死者を悼む独特の雰囲気がある
シムクガマの入り口。チビチリガマと違い、とても広い