伊藤真さんの憲法の講演会を聞いて、学んだこと、考えたことの第2回です。
○人権について
前回は憲法を生かすのは、人間としてのイマジネーション(他者への共感)をいかに働かせるかが問題だ、ということを紹介した。
なぜなら、人権と言うのは、少数者になって初めてその重みを実感するものだからである。
貧困の問題も、あるいは政治ビラを撒いて逮捕されるという問題も、放置しておくことはたやすいことだが、ただ放置しておけば必ずや自らに返ってくる日がやってくる。それは、真綿で首を絞めるが如くである。
○日本国憲法の原則の特徴
伊藤さんは、更に日本国憲法の原則の特徴を述べる。日本国憲法は、「わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保」(基本的人権の尊重)し、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意」(平和主義)するということが前文に目的として掲げられている。
その目的を果たすために「主権が国民に存することを宣言」(国民主権)という文章が続くという。
日本国憲法の目的は基本的人権の尊重と平和主義であって、国民主権はあくまでもそのための手段であるという解釈が私には新鮮だった。
○「人ひとりのいのちは地球より重い」
敗戦後、
「人ひとりのいのちは地球より重い」という言葉が、自然と日本の中から湧き上がってきた、とアジア・太平洋戦争を新聞記者として経験したむのたけじ氏が「戦争いらぬやれぬ世へ」(評論社)で語っている。
戦時中、何百万人の日本人が死に、数千万人のアジアの民衆を巻き込んだ。そんな中で自分が生きていたことの喜びと、多くの生き残った人たちの「いのち」を考えた言葉である。
ひとのいのちは尊く、他人のいのちも尊い。そのことが、戦争の惨禍を通して、戦争はもう二度とはやらない、と当時の日本人には身に沁みて分かったと、実感を込めてむのたけじ氏は語っている。
こうした考えを具現化したのが、日本国憲法の前文及び9条である。
○9条1項の限界
憲法は、自衛戦争を含めて、一切の戦争を放棄している。
第9条1項は「国際紛争を解決するための手段」としての戦争を禁じているが、これは侵略戦争を禁止しているのであって、自衛戦争は禁じていない。
9条1項だけでは、本当の意味で戦争を食い止めることはできない。
それはどういうことか。
例えば米国に言わせると、第二次世界大戦が終わってからというもの、全ての米国が起こした戦争は「防衛」である。
明確なる侵略の現在のイラク戦争ですら、「防衛」である。つまり、自ら行う戦争を侵略とは決して言わず、防衛としか言わない。
そして、日本の自衛隊はそのイラク戦争に加担している。
ちなみに侵略戦争を「防衛」と言い換える詭弁に関しては、かつての日本も同じことである。
つまり、「自衛」とか「侵略」とかという言葉遊びを超えて、全ての戦争を禁じない限り、本当の意味で戦争放棄は実現できないのである。
○9条2項の意味
その意味で9条2項「戦力の不保持・交戦権の否認」は重要である。
この条項がある限り、日本は自衛を含めて一切の戦争をすることができない。
「戦争ができない」(軍事力で問題を解決しない)ということを、どう考えるべきか。
現実の問題に照らしてみると、例えば9.11のテロやロンドンのテロは、軍事力によって守れる類の事件ではなかった。
何せ、世界最強の軍隊を持つ国とそのもっとも忠実な同盟者がなすすべもなくテロの実行を許してしまったのだから。
日本国憲法の立場は、国際紛争の問題解決を軍事力によるのではなく、歴史的・構造的な世界の格差拡大の問題や様々な不公正の問題を正す立場に立ち、非暴力の立場で積極的に平和主義を実践しようという立場である。
テロリストが軍事力に頼るのであれば、それに対抗するには軍事力ではなく国のあり方の正当性に頼るということである。
例えば、一切の戦争をしないことを宣言し、あらゆる国と友好関係にあり、国際貢献として世界の格差縮小に努め、国際紛争を率先して話し合いで解決しようという立場にある国を、どこのテロリストが襲うと言うのだろうか。仮に襲ったとしても、そのテロ行為は孤立を余儀なくされることだろう。
しかし、残念ながら日本の現実は、帝国主義国家である米国の忠実な同盟者であり、世界の格差問題・構造的な不公正の問題解決にも積極的でない。このままでは、テロで攻撃されても不思議ではないのである。
だから、平和憲法を守る(書き換えさせない)ことだけでなく、生かす(理念を実現化する)ことがどうしても必要になってくる。 平和憲法を守り、生かすためには何が必要か。
○平和憲法を守り、生かすために
それは、むのたけじ氏の紹介にある「いのち」の問題に関わってくる。
戦争をするとき、国家は国民の支持を取り付けるため、あるいは動員するためにいろいろな理由をつける必要に迫られる。
「人道のための戦争」「解放のための戦争」・・・しかし、仮にもそのような目的があったとして、果たして人を殺戮する、という非人道的手段を正当化することができるのかどうなのか。
ひとたび戦争が始まれば、国家はどれだけの「敵」を殺すことができるのか、なるべく短い時間で、大勢を、低コストで殺すことを追求する。
その中には当然敵地の「誤爆」も含まれる。そして自軍の犠牲と敵の犠牲との費用対効果を計算する。
それらは、人のいのちを究極に軽んじることを意味する。
戦争をする、ということは人の「いのち」を国家の「道具」として使うということである。
平和憲法を変えるということは、「人ひとりのいのちは地球より重い」という立場から「人ひとりのいのちは道具に過ぎない」という立場に国家そのものを質的に変えてしまうということである。
いかなる崇高な目的があっても、果たして人のいのちを犠牲にしていいのか。そうではなく、人のいのちを犠牲にしない解決策を国家を挙げて追求するというのが、日本国憲法の「積極的非暴力平和主義」の立場である。
すなわち平和憲法を守り、生かすためには、「いのち」を至上のものとして扱い、決して手段として扱ってはいけない、ということを国民一人一人が実践することが求められるのである。
○日本国憲法の危うさと魅力
ここに私は、日本国憲法の大変な危うさを感じざるを得ないのである。
果たして日本のような、米国に従うしか道がないように振舞う「大国」が、人ひとりひとりの「いのち」を至上のものとして扱う覚悟を持つことができるのかどうか。いつまでそのような憲法を日本は持ち続けることができるのか・・・。
まるで子どもが抱く「理想」のようなものを、憲法として規定してしまっている日本の憲法。しかし同時に、今までそれを守り続けているという奇跡的な事実そのものが、信じられないような思いである。
あるいはこの話は憲法を大袈裟に捉えてしまっているのかもしれないが、憲法に書いてあることはそのまま実現すればそういうことである。
更に日本国憲法は、もっと大風呂敷を前文で述べている。
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(前文第2項)
平和的に生きるということは、恐怖や欠乏という貧困・病気・飢餓・差別などの構造的な暴力から解放されて生きることができるということである。
そしてそれを自国民だけでなく、全世界の国民にまで権利を拡大している。このような憲法は日本国憲法だけの特徴とのことである。
子どもの抱くような理想、全世界へ向けた大風呂敷・・・日本の現状に照らして、このような憲法を持つことの大変な危うさと、一方でこの上ない魅力を感じるのは私だけではないはずだ。
○知った者の責任として
「もし、現実に合わせたことだけを書くのであれば憲法や法律は必要ありません。現実と違うからこそ、憲法も法律も意味があるのです。
このすばらしい憲法をここにいる皆さんは知ってしまった。知った者の責任として、この憲法のすばらしさを周りに広げてください。その責任が皆さんにはあります」・・・伊藤真さんの発言はしっくりきた。
現実に決して妥協せず、現実を超える価値観を追求している日本国憲法を、どう守り、生かすべきか。それぞれ一人一人が自分の頭で考えなければならない、と教えられているようだった。
伊藤真講演会には大勢の平和を求める人たちが集った。
帰り際、講演会で渡された自民党の「新憲法草案」に目を通す。
そこには「国や社会を愛」せ、「自衛軍を保持する」など、ただただ国家が国民を支配するための文面が随所に見られるだけの何の魅力も感じない文字の残骸しかない。
そして、日本がこの自民党のいう憲法を持つ国家に変貌したとき、極めて危険な国家になるという危うさもまた、同時に感じるしかなかった。
知った者の責任として、どう日本国憲法の理念を広げていくか。ご覧になっている皆さんも、考えてみてください。