○ある仲間の訴え
「仕事場はまさに「蟹工船」のようで、人間を使い捨てにする。地獄の労働だ」
「仕事から家に帰っても誰もいない。孤独死しても誰も気付かない」
製造業の現場で働く仲間が、私に訴えた。
現場では中国人労働者が目一杯働かされ、地獄のような労働の中、安く買い叩かれて、手取りで7万円程度しかもらっていないという。
また、製造現場だけに、キツイ労働の中でミスをして、不良品を出そうものなら「お前はもういらないよ」などとひどい言われ方をして、人間関係も最悪だそうである。
そして、そうしたキツイ労働を終えて家に帰っても、孤独感を深めるばかり・・・。
このような光景は、今どき珍しいものではないだろう。
○潰し合いの競争〜生きづらい社会
グローバル化、国際競争、生き残り・・・私たちは、気付いたらもう、年がら年中潰し合いの競争に駆り立てられている。
自民党歴代政権が追求してきた「規制緩和」路線と「小さな政府」路線は、見事に国民生活の足元を崩壊させ、今日の「生きづらい社会」を作り出してきた。
「規制緩和」路線は、企業が競争に勝ち抜くようにするために、規制の縛りを解く、という名目で行われた。
これによって企業は実質的な首切りの自由が与えられ、現在「雇用調整」の名の元に大量の派遣切りが行われている。
また、「小さな政府」路線というのは、行政の無駄を省く、という名目で行われたが、実際のところ国鉄や郵政の民営化で公共サービスの低下(地方路線・地方郵便局の廃止など)をもたらし、同時に国民健康保険や雇用保険制度を切り崩し、保険料の切り上げや保険給付の削減により大量の無保険者や国保滞納者、失業給付も満足に受けられない大量の失業者を生み出している。
○二極化する社会
現在、企業に勤める多くの労働者は安定した収入の無い非正規に切り替えられ、正規労働者の処遇までが非正規と比較され、買い叩かれている。
商店街は大規模店舗により駆逐され、「シャッター通り」はどこでも見られる光景になってしまった。
農業は為替レートの違いや規模の圧倒的に違う外国産にかなうわけも無く、国産品は圧倒され、農家はつぶれ、消費者は安全な食物を口にすることが、大枚をはたかない限り難しくなってきた。
いまや、年収200万円に満たない労働者は1000万人を超え、生活が立ち行かずに生活保護世帯に落ち込む人たちも160万世帯を超えた。
自殺者は11年連続で3万人を超え、特にこの競争社会に物心ついたときから晒され、その渦中にある30代で、統計以来最多となっている。
その一方で、労働者を切り捨てることで利益を上げる企業の経営者・株主は年収を倍増させ、「セレブ」などという平成の成金も出現するにいたった。
「勝ち組」「負け組」などという言葉が生まれ、私たちの社会は二極へ分断されつつあることは明らかだ。
○自己責任、「個人的解決」の行き着く先
二極化される社会は、人間の切り捨てを要求する社会である。
こうした人間切り捨ての社会が、例えば上記製造業の大変「生きづらい」現実を生み出しているのではないか。
切り捨てられた人たちに、その切り捨てに巻き込まれる人たちについても考えた場合、圧倒的多数が「生きづらい」条件に置かれているのではないかと考えられる。
しかし、いくら圧倒的多数が「生きづらい」条件に置かれるのが分かっていても、個人個人が手を携えることによって、条件をつくっている構造そのものから変えていこう、ということにはなかなかならない。
むしろ、せめて自分だけはまともな給料がもらえるようにと、周りのことなど考える手間も暇も一切使わず、ひたすら仕事人間として励んだり、自分の子どもが負け組みにならないようにと、学費が高くても予備校まで通わせて、借金をしてでも大学まで進学をさせたりと、個人的な解決を図ることがほとんどだろうし、事実多くの人は今までそのようにやってきた。
確かに、「周りのことまで考えている手間も暇も無い、自分のことで精一杯」という態度は、当座をしのぐ場合には有効だろう。
しかし、しのいだ後にどうするのか。その後も、必ずや次から次へと困難は向かってくる。どこかで歯止めをかけないと、JR宝塚線の脱線事故のように、行くところまで行ってしまう(すなわち破滅・破綻)ということになるのではないのか。
個人個人が孤立し、ただそこで個人同士が競争している場合、全体の条件の低下も、格差の拡大も、貧困に陥った場合の切り捨ても、そして最悪は自殺にいたる場合も、全て「自己責任」で片付けられてしまう。
それが現在の社会であるわけだが、「行くところまで行かない」ように、私たちはどうすべきか。
○失われた「輪」を取り戻す
年越し派遣村の村長・湯浅誠さんは、
「
今非常に不幸だな、と思うのは、世の中がおかしい、ということになっても、それを訴える社会的な回路がなくなっていることです。
結局社会がおかしい、と思った人たちのフラストレーションが溜まると、どういうことになるかというと、自分を傷つけるような方向〜リストカットとか、ごく例外的にだが、秋葉原事件のような、そういう方向にしか行かない。
もうちょっと市民としての正しい怒りの出し方、不満の言い方というのはあるんだ、ということを、私も伝えて行きたい。
そう人たちが増えていき、いろんな人たちがいろんなことを言い出せば、あちこちで(政府の制度的な)岩盤を叩くようになるんじゃないかと、そういうイメージを夢想している。」(「いま憲法25条“生存権”を考える」ETV特集5月3日放映)
個人個人が手を携えること。
かつては労働組合や地域社会など、良くも悪くも社会的な回路は確かにあった。
今は、個人が競争社会に放り出されるだけで、「おかしい」と思ってもそれを「おかしい」と問題意識にすることは困難だ。
放り出された人たちをどう繋いでいくのか・・・失われた「輪」を、現代的な形で再構築しなければならない時期に来ている。
いい青年が「孤独死しても誰も気付かない」というのはあまりにも悲しいだろう。
「輪」の再構築は容易なことではないが、今、私はこの繋がることのできた青年と、この「輪」をどう広げていこうか、考えている。

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