○三無主義の時代
かつて、三無主義(無気力・無感動・無関心)の時代というのがあったと聞く。
1950年代から1960年代までに生まれた世代で、高度経済成長に入り、学生運動も下火になったことで社会への関心を急速に失い、個人的な関心ごとにしか興味を示さなくなる傾向があった時代。
無気力だとか無感動だとか無関心だとか言うのは、あくまでも政治的・社会的な事柄に関してであって、個人的な事柄(趣味や生活)に関しては、恐らくそれとは反比例して強い執着があったことは、想像に難くない。
○「豊かさ」へ突き進んだ時代
彼らが経験したのはテレビや車などが大衆にも消費されるようになった、いわゆる大衆消費社会であり、個人的な消費により自分自身の価値を見出すという風潮が支配し、「稼ぎ、消費する」ことが美徳とされた。
「24時間働く」労働者はビジネスマンと言われ、過労死するまで働くような猛烈な社員は珍しいものではなかった。
ひたすら仕事に邁進すること、ひたすら稼いで消費すること―狂ったように「豊かさ」へ向かって突き進んだ時代であった。
しかし、そうした時代も今は過去になりつつあるとのことで、最近は消費行動にも変化が見られてきていると今月号の「世界」(岩波書店)が取り上げている。
○時代の変化〜肌で感じること
「この大不況下で、消費行動に大きな変化がおきている。
車が売れない。テレビが見られない。デパートの落ち込みが激しい。
高度成長時代に培われてきた大量消費型の生活、生き方、遊び方、そして夢が、特に若い人たちの間で明らかに変わってしまっている。」(特集 大不況がもたらす産業転換)
その、明らかに変わった変化というものを、私は今、自らの肌で感じている。
今どき、これこれの車を買ったとか、高い服を着ているとか、そうしたことに価値を見い出している人は少なくなった。
かつては、自分の高い車を自慢し、ドライブをして楽しんだり、高額の音響設備を整えた部屋で悦に入っているような人が多かったようだが、同世代ではそこまでモノに執着している人はほとんど見ない。
また、仕事をしていると、それだけで疲れている人が多い。
ちょっと無理が続くと、欝のようになってしまい、無理ができない。
サークルなどの仕事外の活動も、ほとんどしている人は居ない。
仕事以外で何をやっているのかというと、見聞きしたところでは、あるのは例えばmixiなどを使って趣味で繋がった緩やかな人付き合いで、コンサートやサッカー観戦、その他の趣味で、その場限りで人付き合いを軽く楽しむという具合だ。
趣味が同じなのだから、深い付き合いに発展しない限りは話題はほとんどそのことに限られるし、気軽だということだろう。
そうした周りの変化が、時代の変化というほど大きなものだとすると、今の時代はどのような時代に変わりつつあるのだろうか。
○「自己愛」社会
金子勝氏(慶応大教授)は、
今の若者の傾向の中に、「自己愛」を見ている。(「世界」(未完の近代と自己愛に沈む日本社会) 2009年10月号)
「自己愛」というのは、自分が傷つくことに極端に臆病で、嫌われないことを一番大事に人付き合いをする傾向のことである。
金子氏いわく、最近の若者は、自分の主張を交換するとか、積極的に伝えるとかいったコミュニケーション能力は著しく低下している一方で、他者を傷つけないコミュニケーション能力は異常に発達している人が増えたという。
確かに、最近の若者の話を聞いていると、意見を交換するとか、主張を述べる経験そのものをしていない人が多い。
意見を求められて、逆に戸惑ってしまっている。不満や愚痴は立派にあったとしてもだ。
会話をしても空虚なもので、する必要もない遠慮していることしか伝わってこない。
良くも悪くも、物事に積極的に関わる、という姿勢が失われている。
三無主義の時代とは違った、新たな「無活力な時代」ともいえるほどの、深刻な状況になってしまっているのではないだろうか。
なぜ、そんな傾向が出てきたのか。
次回以降、考えていきたい。

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