「無活力の時代」について考える2回目
○ とある集会にて〜青年の吐露
とある集会で、仕事がきつくて証券会社を辞めざるを得なくなった青年が報告していたことがある。
「証券会社で働いているときに、会社の株価が上がるとか、下がるとか言う判断の一つに、リストラがされているのかどうか、というのがある。
首切りを増やして、リストラが進んでいる、と判断されると、”その会社の株は買いだ”となる。
仕事をしていて感覚がおかしくなってしまっていたが、こんな経済のあり方はやはりおかしいと思う」と。
リストラが進むとその会社が上向きになる、なんていうのは常識じゃないか、という人がいるかもしれない。
しかし、その会社は、その場では株主や投資家に評価されて利益が上がるかもしれないが、人間を切り捨てたことで、恐らく自らの社員や、これから就職しようと思っている人には評価されることは難しくなるだろう。
しかも、そうして切られた人たちが、とたんに不安定な状況に身をおかれ、住むところすら失い、希望もなくしてしまうことは、この間の「派遣切り」問題や多くの自殺者が証明しているとおりだ。
しかし、
短期的な視野で評価を求められる企業は、人間を切り捨てることで評価が上がるという倒錯に陥っている。
こうした現象は、一部の企業の話ではない。
○人命に優先する「競争主義」
一部どころか、多くの企業では短期的な利益を上げることに追い立てられていて、「どれだけ人減らしが行えるか、どれだけ安い人件費を調達できるか」ということに関心が集中してしまっている。
価値あるものやサービスを作り出すのではなく、「いかに安く労働者から搾り取り、価格競争に打ち勝つか」ということばかりに追い立てられている。
不況を利用して、好況期(単なる企業の生産拡大期に過ぎないが)に拡大した雇用をスマートにする。そんな思惑さえ感じるが、それさえ当然のことのようにみなされる空気が怖い。
一昔前は、労働者の「首切り」は最後の手段であり、仮に大規模に首切りを起こそうものなら、労働組合も黙ってはいなかった。
しかし、現状はご覧のとおりだ。
労働者の権利を守るために闘ってきた闘争的な労働組合を「国鉄分割民営化」(国労解体)に象徴されるように、政府が介入して壊滅させた。
結果として、JR宝塚線の脱線事故に見られるように、結果として社員を駆り立て、
競争に勝つことのほうが安全(人命)よりも尊重されるという状況を生んだ。
これは何も国鉄に限ったことではなく、例えば2006年に起きたふじみ野市の市営プール事故なども典型だろう。
施設管理を競争入札にして、請負金額を下げに下げた(それまでの6割にまで下げた)挙句に安全そのものを売り渡した。
請け負った会社は当然安い条件で施設を管理するのだから、自然手を抜くことになり、結果排水口の管理が不完全で少女が吸い込まれて死亡した。痛ましい事件だった。
公的部門でさえ、コスト競争優先で安全は二の次である。このような社会では、民間で首を切れば会社が評価されるのも、無理はないだろう。
しかし、失われた命は二度と還ることはない。
人死にが出てからでは遅いのだが、私たちの社会はそのような過ちを繰り返しに繰り返して未だに抜け出ることができずにいる。
○無活力に落ち込む社会
前回取り上げた金子勝氏(慶応大学教授)の「自己愛」という視点に戻ろう。
「自己愛」というのは「自分が傷つくことに極端に臆病で、嫌われないことを一番大事に人付き合いをする傾向」の裏返しであると述べている。
つまりは
自分の世界そのものに至高の価値を置いて、他者との交わりの中に新しい価値を見い出す視点は欠落している。自分本位でそれ以外のことに意味を見い出すことができない。
そうなると、自分の世界から出ることができないのだから、当然ながらどんなに理不尽でも「状況をみんなと変えよう」、ということにはならない。
それでも何とかなっているうちはいいが、状況に行き詰まると電気街の歩行者天国で突然大量殺人に走ったり、パチンコ屋へガソリンをまいて火をつけてみたり、個室喫茶に火を放ったりして、鬱積していたものを爆発させるのは、なんという病んだ自己表現の仕方だろうか。
さすがに多くの人は、このような爆発の仕方をすることはなく、日々厳しい労働や家庭状況の中で、ただただ自分の世界にひっそりと落ち込んでいる。
人付き合いがあるのは前回も述べたように、恋愛ごとかせいぜいmixiなどを使って趣味で繋がった緩やかな人付き合い、コンサートやサッカー観戦などの趣味の世界で、その場限りで人付き合いを軽く楽しむという具合だ。
そんな中で、状況に耐えられずにうつ病になってしまう人も多いようだが、これはこれで救われないだろう。
無活力な状態というのは、結局は「連帯して闘うことで事態を切り開く希望」が失われ(選択肢からなくなり)、連帯することなく、周りが競争相手にしかならないために人間関係も希薄になり、「結局周りがみんな敵」「付き合うだけ疲れる」という認識に陥った人が、追い詰められた状態で陥る最後の逃げ場所なのかもしれない。
しかし、このような時代は、社会にとっては崩壊の危機とも呼べる危険な状態というべきだろう。
○無活力社会・・・最大の愚民政策
金子氏は、若者の投票率が低いのを見て以下のように述べている。
「いま登録ベースで380万人もの派遣労働者、150〜200万人の間でフリーターがいる。こういう人たちに社会を考えろというのはハードルが高いと思います。
・・・
学業未達成・部品労働という状態に身を置いたと考えたとき、何で私が、社会について考えなければいけないのかという動機そのものが見出せないような気がする。
投票する意味が分からなくなっているのだと思うんです。
雇用を不安定にして若い人を未来が考えられない状態に置くというのは、最大の愚民政策ではないでしょうか。
・・・」
金子氏は、この愚民政策によって、権力者が「構造改革」という名の人間切捨て政治の失敗についてなんら責任を取ることもなく、新しい戦略を民主主義的に議論できなくなっている現状を指摘している。
未だに反省することなく構造改革推進を叫ぶ人たちがメディアを賑わしているのは、そういうことなのだろう。
個人が社会で生きていくにあたり、徹底的にバラバラにされてしまっているのが現状で、生きていくために助け合うためのシステム(社会的な合意を行う仕組み)が驚くほどない。
例えば、働く場でどれほど理不尽なことがあっても、労働者の権利一つ分からない。実感できない。いわんや周りと共有することなどまずない。
サービス残業や労災隠し、偽装請負、派遣切りが現場でいくらでもはびこっているのは、この「愚民政策」の帰結である。
そして、活力の無い、生きがいの見出せない時代が始まった。
個人が集まり、社会を共につくっていく、という実感が根こそぎ失われてしまっている。
しかし、こんな社会は持たないだろう。どうすれば状況を変えることができるのだろうか。
あまりにも難問なので答えはないかもしれないが、次回考えてみたい。

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