Blogに記事を書く、という行為は僕にとって言葉遊びに近い。
おおよそのテーマとタイトルを決めたら、あとは言葉を連想してつなげていく。
もちろん最後に校正するけど、おおよそは思いつきで書いているようなものだ。
言葉の力、ということについてよく考える。大学に入った頃からか。
言葉、とは僕らの感情や漠然とした考え、あるいは論理から生まれるものだ。
僕らの気持ちは言葉という中間形式に変換され、空気や本やいろいろな媒体を伝播して、そして言葉は僕らのの耳や目に入ったとたんに、強い力を発揮して僕らの感情を左右する。やっかいなことに、感情から言葉へ、言葉から感情への変換はとてつもない誤差を含む。
メールで話をしていて、相手は何も言っていないのに「もう眠いのかな?」と思った、とかそんな経験は誰にもあると思う。明文化されていない感情を読者が読み取る、ということは、その言葉から言葉以上の影響を感情が受けたということだ。
ちょっと休憩。去年の今頃、ヨーロッパに卒業旅行に行ったときの写真。
サンピエトロ大聖堂と月と木星。クリックしたら大きい画像で見れます。
きっと、文章のプロはそういった感情を言葉や構成に埋め込むのがうまいのだろう。
逆に、言葉に支配されてしまうこともある。
「時間を守るのは大切だ」
一見まともなことを言っている。
この一文で最も強い力を持つのは「大切だ」の部分だろう。
「大切だ」と言われるとなんだか、自分もそうならなきゃいけないような気にさせられる。
でもどこにも「そうしなさい」とは書いていない。
もっと言うなら、「大切だ」は「大切だ・・・と思うよ?」なのだ。
いいこと言ってるんだからそうした方がいいんじゃないの?
という人もいるかもしれないけど、それはまず「一見まとも」だから「いいこと」だと思ってしまっているところで言葉に支配されているし、「いいこと」という言葉の力にも支配されている。
言葉に支配されずに言葉を使いこなすには、きっといろいろな知識と考察がいる。その知識も考察も言葉で表されているとするなら、僕らはいったいいつ言葉から自由になれるのだろう。
僕も言葉がどういうものなのか解っていないから今回は中間発表みたいなものだ。我ながらすごく分かりにくい文章を書いたと思うけど、それこそ、「言おうとしてることは伝わったんじゃないかな」ということだ。

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