2009/7/1

事実と解釈 −究極の法源を求めて−  

数十カ国の学生の皆様へ話しかけることは、「中立」などという曖昧模糊とした概念化は必ず齟齬をきたすことを語っておきたい。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず、結局、人の「言葉」というのは主観的な立場・感情・論理からまず出ていることを認めなければならない。あちらも立てて、こちらも立てる言葉は、結局、あちらとこちらを包括した「立場」であるわけだが、一時的にはそのような概念化は有効であったとしても、日常生活は概念化だけで成り立っているわけではない。勢い、概念化のむなしさ・詭弁性をかこつことが現実を生きる人々の言葉となってゆくのだ。■カントはきっと悩みに悩んだに違いない。神聖ローマ帝国皇帝と諸侯、さらには他国の国王たちが戦争への道を絶えず模索する関係から平和への道を模索させるためには、概念化だけではどうしても現実に立脚した政治はできないと。■おそらくカントにとって、概念化という論理的包括方法論は無駄な言葉の応酬であることから、人間理性を包括してしまう先天的感情にこそ人間本来のあり方を求めたのでありましょう。■純粋理性批判は、とりもなおさず概念化による無益な解釈に終止符を打ちながら、現実生活へのたゆまない接合をもとめたのではないでしょうか。宗教をも包摂する倫理・道徳というア・プリオリな規範こそが人間を人間たらしめる最初で最後の究極の法源ということなのでありましょうか。たとへ、現実主義者たちが「人間の欲望」を管理する危険を解いたと致しましょうとも・・・。





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