2009/11/9
ものまねが流行る本当の理由
世をあげてのものまねの時代だ。ものまねがなぜ流行るのか、その理由を説いた識者は少ない。江戸時代に「ものまね」のジャンルが芸能として流行っていたことは聞いたことはない。ものまねは、権威の正統性と社会の自由に密接に関係をしているはずだ。
というのも、ものまねは「偽物(にせもの)」であり、真贋を問うことすら必要はない。この本物と偽物の違いについては小林秀雄が興味深い真贋論を展開をしているが、小林の場合、その対象は絵画などの芸術作品に限定されている。偽物がはびこることは、本物がいかに「価値」を有しているかの裏返しなのである。
さて、現代のものまねでは、それ自体が芸であり価値を与えられる。真贋論では蔽いきれないかに思われるが、実は、「まね」は「まねぶ」という動詞から「学ぶ」が生まれたように、本物に近づく努力は、すべて「偽物」なのである。それでは、生徒・学生の教育はすべて「偽物」を作り出すことになるではないか、ということになるが、本物から見ればそうなのである。ただし、真似自体に価値が与えられるように、学んだ個人は、それだけで価値が与えられ、社会貢献を行うのである。
それでは芸能のものまねは、なぜ人々を楽しませるのか。結局は、人々は本物の世界に住んでいるわけであるが、その認識は自らを「よりよいものへの認識」が自然と働くために、自らをあたかも偽物であるかのように潜在的に追いやる心理が働く可能性があり、そのことが現実への認識を骨の折れるものとしていることがままあるのであります。ものまねは、単純な現実逃避なのでありますが、そこには本物への志向が残されているのであります。
というのも、ものまねは「偽物(にせもの)」であり、真贋を問うことすら必要はない。この本物と偽物の違いについては小林秀雄が興味深い真贋論を展開をしているが、小林の場合、その対象は絵画などの芸術作品に限定されている。偽物がはびこることは、本物がいかに「価値」を有しているかの裏返しなのである。
さて、現代のものまねでは、それ自体が芸であり価値を与えられる。真贋論では蔽いきれないかに思われるが、実は、「まね」は「まねぶ」という動詞から「学ぶ」が生まれたように、本物に近づく努力は、すべて「偽物」なのである。それでは、生徒・学生の教育はすべて「偽物」を作り出すことになるではないか、ということになるが、本物から見ればそうなのである。ただし、真似自体に価値が与えられるように、学んだ個人は、それだけで価値が与えられ、社会貢献を行うのである。
それでは芸能のものまねは、なぜ人々を楽しませるのか。結局は、人々は本物の世界に住んでいるわけであるが、その認識は自らを「よりよいものへの認識」が自然と働くために、自らをあたかも偽物であるかのように潜在的に追いやる心理が働く可能性があり、そのことが現実への認識を骨の折れるものとしていることがままあるのであります。ものまねは、単純な現実逃避なのでありますが、そこには本物への志向が残されているのであります。